2013年1月27日日曜日

若者に何を伝えたいのか?

「若者の特権」ってなんでしょうか?

それは「時間が沢山ある」ことです。

時間が沢山あるっていることは、やり直しがきくっていうことです。

まだ生きてきた時間も少なくって経験値も低くから、色々とヘマしてしまいます。でも少々ヘマしたって、「まだ若者だからね」って大目に見てもらえること。

何度もやり直しのチャンスがあること。

何度も失敗とやり直しを繰り返してこそ、人と交わることの大切さ、チャレンジ精神、独自のアイデアや自分らしさの発見など、若いうちに学ぶべきことが学べるのではないかと思うんです。

子の心親知らず
「親の心子知らず」などといいますが、「子の心親知らず」もまた真なりです。

自分が親になってみると、つい自分と同じような過ちを犯して欲しくなくって、つまらない口出しを色々としてしまいます。そうすることで学習の機会を奪っているというのに。

でも安全に失敗できること、そして失敗から回復する時間があることこそが若者の特権なんですから、大人が、ましては親がそれを奪ってはいけないと思うんです。

自分の子どもが連れてくる友達、異性……、彼らが始める行動。そういったすべてに何か一言言いたくなるものです。でもさまざまな人間と触れ合ってこそ、そこに成長があるわけです。仮に合わない友達とつるんだとしても、それ自体が学習です。

それに自分の子供の選んだ友人や異性を拒絶したり批判/批評するということは、自分の子供を拒絶し、批判/批評していることと同じです。それはすなわち自分の子育てそのものを否定しているのと同じことでしょう。

子供がトラブルに遭遇すると、解決してあげたくなってしまうものです。でも自分が思春期だった頃を思い出すと、別に親からの解決策なんて求めていなかったように思うんです。強いて言えば、気持ちを分かって欲しかった、そっとしておいて欲しかった。そんなふうに思います。

過去のことは忘れてしまう
しかし自分が親になると、そんな簡単なことすら忘れてしまうものです。

そしてつまらないことに口を出し、子は親に不信感を抱き、親子の断絶が始まります。

しかしこうした断絶や葛藤も、「家族の成長物語」と呼べるのかもしれません。多くの家庭で、親のほうも弊害に気付き、ドキドキしながらも子供に口を出すのを減らして行くのではないかと思います。やがて子は成人し、時とともに親の気持ちを知り、代わりに若者の気持ちを少しずつ忘れていくのではないでしょうか。

失敗を許さない学校
学校という場所は、そんな親たちよりもずっと失敗に非寛容だったりします。失敗どころか、決められたレールを少したりとも外れることを許してくれません。親のほうでもっと失敗に寛容に接しようと思っても、学校という社会がそれを許してくれないようなところがあります。

制服、髪型、夏休みの過ごし方……。ありとあらゆることに口出しし、従順な子はロクになんの失敗も経験せずに大人になってしまうのではないのでしょうか?そしてちょっと枠からはみ出した子はとても息苦しい。そんな学校はとっても多いのではないかと思います。

何を伝えたいのか?
ここで例の体育科のある大阪の高校の話です。問題となっている先生は、生徒を叩くことで一体何を伝えようとしていたのでしょうか?怠けていると信頼を失う。結果が出ない。そんなことは放っておいても学べることです。

叩かないとうまく伝えられないことって何なんでしょうか?

- 自分より力や権力があるものには逆らうな。

- 権力者の顔色に敏感になれ。

- 失敗は極力避けろ。

- 責任のある立場は避けろ。

- 独自の発想なんていらない。

- 目立つことを避けろ。注目されたっていいことない。

こんなところでしょうか?「若者の特権」や「若いうちに学ぶべきこと」と真逆のことばかりだと感じるのは、私だけではないでしょう。

えっ、想像でもの言うなって?

そうでもないんです。私自身も体育科のある高校を卒業しました。大半の先生はいい先生たちでしたが、よく殴る体育教師が何名かいました。そして教育実習生を殴って新聞に載った勇敢な(?)先生もいました。ですので25年ほどたった今も、あまり変わっていない高校があることに驚きを禁じ得ませんでした。

そうそう、暴力教師を通じてひとつだけ大事なことを学びました。

世の中って最低な大人がいるんだな、ってことです。

実に貴重な学びでした。



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2013年1月21日月曜日

暇つぶしの時代

先日「僕たちの娯楽社会」というエントリーを書いていてしみじみ思ったことがあります。

それは、生存のために働く時代はそろそろ終りつつあり、「暇つぶし」のために働く時代がやってきた、ということです。

暇つぶし社会
実際問題、飢えないために働く時代は、もう何十年も前に終っているのです。

日本の就労人口はすでに人口の半分を切っています。老人や子供を含むとはいえ、人口の半分以上はまったく働いていないのです。

増え続けるニートたち。こういった人達も働いていません。フルタイムでは働いていないアルバイトの人達も膨大な数です。

だからと言って別段これらの人が飢え死にしているわけではありません。これは日本だけというわけでもなく、先進国に共通する現象です。

先進国に住む10億人程度の人に限って言えば、別段一生懸命に働かなくとも、飢えることのない時代がやってきたのです。仕事をしたくたってロボットや後進国の人が代わりに働いてしまうので、働きたくても、そもそも働く機会がありません。

前エントリーでお話した「娯楽社会」というのは、要するに「暇つぶし社会」と言えなくもありません。「一億総高等遊民」の時代が来たと言ってもいいでしょう。高等遊民って明治や大正のころにいた、高等教育を受けたのに働きもせずブラブラしていた人達です。21世紀を生きる私たちはみんな高等遊民で、一生をかけて壮大な暇つぶしをやらなければならないのです。

仕事って実は暇つぶしじゃないのか?
人生は壮大な暇つぶしである、というのは多くの人があまり認めたがらない真実なんじゃないかと思います。忙しくて疲れ切った顔をしている人も、他でもない自分でそういう仕事を選んだわけです。

また、ヒマになるのが怖い人も沢山いるでしょう。何をしてもよい時間というのは、自分で時間の潰し方を考えなければならない時間です。こうした時間を苦しく感じる人、けっこういそうな気がします。

よく定年退職を迎えると、突然やることがなくて、奥さんの後を付いて歩く男の人の話なんて耳にします。「お前どこ行くの?」なんていってウロウロ。要するにヒマであることに耐えられないわけです。自分の暇つぶしぐらい、自分でできるようになっておいたほうがいいのではないのでしょうか?

また多くの忙しそうにしている人も、実はヒマそうにしていると世間体が悪いから忙しそうにしているという人、少なくないでしょう。

あるいはヒマそうにしているとなんだか後ろめたい。そんなわけで定時に帰ればいいのに、就業時間中はダラダラして、定時後になると急がしそうにしている人、周囲にいるのではないのでしょうか?

家でヒマそうにしていると家事を手伝わなきゃならないし、子供の勉強を見たり、家族と対話したり。多くのお父さんが苦手なことが満載です。仕事に逃げて忙しそうにしていると、そういう雑事から解放されます。

ヒマの何が悪いのか?
別にヒマを持てましていたって誰かに迷惑をかけているわけではありません。

しかし一体ヒマの何が悪いでしょうか?

ツイッターやブログを読んだり書いたりできるのも、要するに暇の成せる業です。ゲームもテレビも同様です。子供の宿題を見てやったり、一家団欒をしたり。外食に行ったり、同僚と飲みに行ったり。ショッピングに美容、スポーツ、観光……。こうしたモロモロのことはヒマじゃないとできません。

ヒマなのって気持ちいいです。

またヒマを上手に使って世紀の大発明や大発見をしたり、素晴らしい芸術を生み出す人もいるわけです。 ヒマというのは、実に贅沢な時間なのではないでしょうか? 最後にスチャダラパー の「ヒマの過ごし方」をどうぞ。とっても考えさせられる歌です。





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2013年1月16日水曜日

僕たちの娯楽社会

ロボットが仕事を奪う社会になりつつあります。

例えば中間層の没落は、海外に仕事が出て行ってしまっただけで起きているわけではありません。

2007年のリーマンショック以降、どの企業でも凄まじい合理化が進みました。社内でのIT活用が劇的に進み、簡単なレポートなどや数字の取りまとめなどは、みんな管理システムが自動生成できるようになってしまったのです。

するとそういう仕事をやっていた人、みんなお払い箱です。

自動化はさらに進んでいく
Google が実験していた自立走行車、事故があったのは人間が運転していた時だけ、というウソのようなホントの話があります。おそらく今後10年ほどの間に、トラックなどの商用運転が大幅に自動化されるでしょう。そしてトラックの運転手たちはお払い箱になってしまうのです。

なくなる仕事はトラックの運転だけではありません。アマゾンは650億円を投入して倉庫管理を自動化するようです。そしてこれがその自動化に使われるロボットです。



こんなものが導入されれば、人間がほとんど要りません。それどころか空調や照明さえもほとんどいらないのでしょう。

アマゾンで荷物運びをしている人達、時給12ドル程度の低賃金と言われていますが、そのような仕事もロボットに奪われてしまうのです。

iPhoneの製造で有名なフォックスコンも組み立てロボットの導入を表明しています。こうした技術も10年もすれば成熟し、大半の人間を置き換えてしまうでしょう。これら工員の時給は2ドルにさえ満たないのに。

頭脳労働はどうなる?
では頭脳労働はどうなるのでしょうか?

現在、新聞や雑誌の記事を自動生成して配信するシステムなどが登場しつつあり、新聞記者を大量にお払い箱にしそうな予感なのです。

またIBMが開発した質疑応答システム「ワトソン」はクイズ番組の決勝大会に出場して優勝してしまいました。こうしたシステムが安価になり、我々の仕事を奪っていくのは時間の問題でしょう。コールセンター業務などもやがてこの「ワトソン」と、Siriのような音声解析システムを組み合わせた技術によって置き換えられていくでしょう。

人間はロボットたちの電池になるのか?
昔「マトリックス」という映画がありました。その映画の中で、人間はみんなカプセルの中で眠り、仮想現実の世界で白昼夢を見続けるのです。そして眠る人間たちは世界を司るロボットたちのエネルギー源として生かされている、というようなお話です。

人間から仕事が奪われてしまうと、困ったこと事が起きてきます。みんな収入がなくなってしまうのです。するとせっかくロボットが製品を作ってくれても、買えないんです。

だから人間たちはどうにかして、自分たちの生活を営むため、そしてロボットが働く企業がさらに儲るよう、なんらかの手段でカネを稼ぎ、さまざまな製品を購入し続けていくでしょう。

私たちが「購入する」ボタンをクリックする度に、どこかでロボットが作った製品が、ロボットによって搬送され、手元に運ばれてくるようになるでしょう。 なんだか本末転倒な感じもしますが、おそらく世の中はそんなふうになっていくでしょう。

人間は何をして金を稼ぐか?
では人間は何をやってカネを得るのか?というところが次の疑問です。

これまで通り衣食住に密接に関連する飲食店や医療、土木建築など、あまりロボット化されずに続いてゆく仕事も沢山あるでしょう。

でもそれらの仕事には沢山の人が参入し、賃金は下がるばかりとなるでしょう。資格で守られている医療系はまだしもですが、それ以外は本当に大変になるでしょう。いや、すでにとっても大変になっているのかもしれません。

では人間は何をやるんでしょうか?

娯楽社会が来る
私が思うに、人間がサバイバルのために働く時代は、少なくとも先進国ではすでに終っています。

その証拠に、1940年代には家計の60パーセント以上を占めていた日本のエンゲル係数は、もう20パーセント程度しか占めていません。真の意味で食べるためにかかるコストは限りなく低く、いつの間にか働かなくても生きていける社会になっているんです。

人生はサバイバルゲームではなく、単なる壮大な娯楽になりつつあります。

人間はただただ娯楽を生産し、消費するようになります。

……っていうかすでにそうしています。

例えば大学。

いまや大学進学率は60パーセントにも達し、みんな大学と名の付くところに行って、壮大な暇つぶしに興じています。

そもそも学問は一種の娯楽と言えなくもありません。実用的な学問も沢山ありますが、例えば源氏物語を原文で読むとか、哲学の勉強をするとか。現実的なアプリケーションがほとんどない学問も沢山あります。知的好奇心は満たされ、実に味わい深いものですが、それだけです。

みんなが学校の塾の先生、楽器の先生、ゲームの開発者、映像作品や音楽作品の制作者や配信者となり、あるいは旅行や留学の斡旋業者になり、みんながそれを消費する側にもなります。

あるいはレストランでの食事。これもまた一種の娯楽です。

あるいはブログを書いたりYoutubeビデオを作ったり、面白いことをツイッターで呟いたりしてうまいこと収入に結びつけていく人も出てくるでしょう。

自分が創作する人でなくても、こうして作られた「娯楽」を供給する仕事に就く人も沢山いるでしょう。 考えてみたら私たちはすでに「娯楽」に囲まれて暮らしています。タブレット、スマホ、一眼レフ、大型テレビ、ステレオ、ゲーム……。どれもなくたっていいものばかりです。



そして僕たちは電池になる
こうして人間は好むと好まざるとに関わらず、知らず知らずのうちにマトリックスの電池のような存在になっていくのではないでしょうか?

カプセルに入って白昼夢を見る代わりに、娯楽に興じ、そこで得たカネで、さらなる娯楽に必要な製品を買っていくんです。

そういえばツイッターだってブログだって、youtubeビデオの制作だって、スマホやらPCがないとできませんね。

こうした工業製品たちはすべて、時間の問題でロボット君たちに製造されるようになるでしょう。

僕たちのマトリックス化、思ったより早くやってくるのかもしれません。

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2013年1月10日木曜日

親子間のコミュニケーション

「下流の宴」という林真理子の小説を読んでみました。それなりの教育を受け、平穏な家庭を営む主婦由美子の悩みは、20歳になる息子が中卒で定職をもたないこと。下流に甘んじる若者の心理、そうした子を持つ親の葛藤などを描いた力作で、グイグイと読まされてしまいました。

色々と考えさせられることが多かった一冊ですが、特に身につまされたのが親子間のコミュニケーションの難しさです。

自分も思春期を迎えた頃、親の言うことは本当に鼻についたものです。母親は小言を際限なく浴びせ、父親は息子の状況なんて対して把握していないくせに、高圧的に罵声を浴びせたり、あるいは暴力で息子をねじ伏せようとしたり。

そして繰り返される数々の脅し。

「ちゃんとした学校を出ていないとロクな会社に入れないよ」

「ちゃんとした仕事に就かないと家を買ったり、クルマを買ったりできないよ」

「学歴がないと一生人からバカにされるんだ」

などなど。

こうした「脅迫」は本当に嫌いでした。 そして「小言攻撃」や「罵声攻撃」、あるいは「脅迫攻撃」が通じないとなると、次は「猫なで声」の出番です。

「あなた自身の将来なんだから自分で考えなさい」「自分のやりたいことをやったらいいわ」

などなど。

「下流の宴」の主人公もまた息子に:

「翔ちゃんの人生だからゆっくりでいいのよ。ゆっくりと自分の好きなことを見つければいいのよ」

などと言うのです。ところが親は腹の中ではそんなことちっとも思っちゃいません。それなりに大学に進学し、それなりのところに就職して欲しい、と切に願っているのです。

こんなことを偉そうに書く自分も、結局自分の親が通ったのと同じ道を通り、子供に向かって小言や罵声、あるいは猫なで声を出しました。そして何も伝わらず……。そして考えずにはいられませんでした。

なぜ親子間のコミュニケーションはこんなにも難しいのだろうか?

この小説は、そんな葛藤を久しぶりに思い出させてくれる一冊でした。

以心伝心
家族という関係はとにかく「濃い」関係です。

よく「阿吽の呼吸」、「以心伝心」などと言いますが、それが当たり前なのが「家族」とう関係です。だから親が猫なで声を出そうが怒鳴り声をあげようが、子どもたちは親の言葉からではなく、身振り手振りや表情などの非言語のコミュニケーションからメッセージを汲み取ってしまいます。親もまた、子供のふてくされた態度や挑戦的な態度を感じ取り、敏感に反応してしまいます。

そうやってお互いに自分自身の嫌いな部分を見いだし、反発し合ってしまう。親子という関係の難しさは、こうした鏡のような関係にあるのではないかと思うのです。

息子や娘が反撃の牙を剝き始めると、痛いところを突いてくるのはそのためでしょう。学歴や世間体を気にする自分。出世したほうが偉いと思い、職業に貴賤があるとどこかで思っている自分の価値観。そしてそうした一丁前の生意気な指摘にいらだち、必要以上に罵声や説教を浴びせ、それがまた反発を生み……と悪循環にハマっていくのです。

一体なにを伝えたいのか?
親というのはとにかく子供に自分が得た教訓を伝えたくなってしまうのではないでしょうか?

特に自分が犯した失敗は子供に犯して欲しくないと思うものでしょうし、だからこそ少しでも安全なレールに乗せたくなってしまい、口出しをしたくなってしまいます。特に思春期に突入し、色々とおバカなことをやりだす子ども達を黙ってみてるのは本当に難しいものです。

そこでなにやらメッセージを伝えたくなる。心に響く言葉を。そんなことを思う父親は少なくないないだろうし、母親はどうしても小言爆裂。

でも問題は2つあります。

- 自分には語るほどの言葉や資格があるのか?

- 子供はメッセージなんて聞きたいのか?

ってことです。

またメッセージを伝えるにせよ、本当に伝えたいことを喋っているのだろうか?という自問自答も必要な気がします。つまらない処世術を喋ったって、本気で自分というものを探し始めた思春期まっただ中の息子や娘に響くはずもないような気がします。

自分が思春期の頃を振り返ってみると、親に限らずですが、欲しかったのは色眼鏡を掛けずに話を聞いてくれる大人だったように思うんです。あるいは自分の価値観をあたかも普遍の真理であるかのように押し付けない大人。言っていることとやっていることが一致している大人。

自分は一体そういう親に、大人になれたのだろうか?

そう考えた時に、口を塞がざるを得ない気がします。

言葉ではないメッセージ
結局子供にメッセージを伝えたかったら、自分の背中を見せるしかないのではないか?と思うんです。

どうせ何かいったって反発されるだけです。

それよりも「人の悪口を言うな」というのなら自分が言ってはいけませんし、「勉強しろ」というのなら、夜youtubeなんて見てないで、専門書の一冊も読めばいいんです。「人生を楽しめ」というのなら疲れた顔をして足を引きずって会社に行くのではなく、楽しげに人生を謳歌すればいい。

子供にいい聞かせたいことの半分も出来てない自分を知ることで、まあ「ガミガミ言うのはヤメとくか」って気にもなれると思うんです。

私は子供に「勉強しろ!」というの、子供が高校生になったらようやくストップできました。

自分が言っていること/考えていることは本当に大切なことなのか、あるいは矛盾はないのか自問自答してみる必要もあるのではないでしょうか?

「職業に貴賤はない」といいながら「いい会社に入れ」と言っていないか?

「努力すれば報われる」と言いながら、実は「才能がない奴は無理」と思っていないか?

「ウソはいけない」と言いながら、「ウソも方便」と思っていないか?

言葉では伝わらず、言語外のコミュニケーションで伝わってしまう関係だからこそ、姿勢が問われてくるのだと思うんです。

そして自分がそういう姿勢が示せないなら、「まあオレの子じゃしょうがないな」と思って黙っていたほうがいいいような気がするんです。

そういった姿勢が出来て初めて、子供が少しだけ心を開いてくれるように思います。

こうしてみると、子育てをしてるんだか、自分が子供に育てられているんだか分かりゃしません。

身の程を知る。

これは子育てにも当てはまる、大切な真理かも知れません。

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2013年1月5日土曜日

クイズ:ブラウニーを2等分にする方法

あるところに、双子の男の子が住んでいました。

2人は競争心が激しく、なんでもかんでもすぐに取り合いします。 なので、ジュースでも食べ物でもキチンと2等分しないとすぐに大ゲンカは始まってしまうのです。

ある日、双子のお母さんは、2人の大好物のブラウニーを焼きました。



長方形に焼き上がったブラウニー、とってもおいしそうです。

ところがお母さんが、2等分しようと思っていると、そこにお父さんがやってきて、

「おお、うまそうなブラウニーだなあ」

と言って、真ん中辺を長方形にくりぬいて食べてしまったのです。

こんな具合。



真ん中の白い長方形がお父さんの食べてしまったところです。

さて、お母さん、絶体絶命です。

これを平等に2等分しないと、息子たちが大ゲンカを始めてしまいます。

いったいどうやって切ればいいんでしょう??

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困り果ててしまった友達は、ふと学生時代の仲間で、今は数学の先生をやっている女友達を思い出し、電話をかけて聞いてみました。するとその友達は

「そんなの簡単。そのブラウニーを平等に2等分する方法、少なくとも2通りあるわ。小学校の算数で解けるわよ。」

と言って2通りの切り方を教えてくれました。

そしてお母さんは無事にブラウニーを2等分することができたのです。

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さて、上記はたまたまラジオで聴いたクイズです。私は5分ほどで2通りの切り方を思いつきました。

皆さんはいかがでしょうか?

正解はこちらから



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