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Brighture English Academy 代表。趣味はウクレレとかハイキングとかDIYとか旅行などなど。在米20年。シリコンバレーに住みつつ、日本とアメリカとフィリピンで会社経営しています。最近は英語教育がライフワークになりつつある。

2012年12月30日日曜日

雨の日には傘を差そうよ

なんだか誰にも会いたくない日ってあるよね。

自分が傷つきやすくなっているのが分かるし、学校に行ったり遊びにいったりする元気が出ない日。

1日中お布団に包まって眠っていたい日。

オマケに学校に行くことを考えると、気が重くなる。熱があるような気がしたり、お腹が痛くなったり。

大人でもね、そういう人、沢山いるんだ。

会社に行く時間になると下痢をしてしまったり、電車に乗っている最中に気分が悪くなったり。

俺にもね、そんな時期があったよ。

電車を途中の駅で降りて、少し休んでからやっとの思いで会社に行ったこともあったし、どうしても行けなくて、会社を通り越して次の大きな駅まで行って。そこでデパートをうろついてから会社に行ったこともあった。

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人生って残念ながら、いつもお陽さまが当たっているわけでも、虹が輝いているわけでもないんだ。

何歳になっても意地悪な人やヤな奴もいる。

いい日もあれば悪い日もある。

遊びにいく予定の日に、雨が降ることもあるでしょ?

でも雨が降ったらさ、傘を差したり、雨が止むまで雨宿りしたりすればいいよね。

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雨の日が続くと、なんだかずっと雨が続くような気がしちゃう。

イヤな日が続くと、一生イヤな日が続くような気がしちゃうよね。

でもそんなことないんだ。

お天気も人生も同じ。土砂降りの日もあれば、青空の日もある。イヤな日もあるけど、いい日も必ずくるんだよ。

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大人はね、「若くっていいわね」とか「今が一番いいときよ」なんて言うでしょ?

あのね、あれはウソ。中学校って実は一番大変なんだ。

大人の人はね、そりゃ仕事は大変だけど、働けばちゃんとお金がもらえるでしょ?

それからね、たとえちょっと変わっている人でも背が低くても高くても、不細工でも、仕事ができればそんなことは帳消しになっちゃうんだ。

「あの人、ちょっと変わっているけど、仕事がすごく出来るよね」

って言ってもらえる。

それどころかちょっと変わっている人のほうが、新しい仕事のやり方を考えついたりね、普通の人よりも役立つことも多いんだ。

だから大人になれば少しぐらい人と変わっていても、全然OK。困ったりしないんだ。

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じゃあ働いていない人はどうすればいいかって?お金を稼いでいない大人は?

そんな人でも色々な形でみんなの役に立って、自分の居場所を見つけることができるんだよ。

元気に生きているだけで人に元気を分けてあげられる人もいる。お金を稼ぐだけがみんなの役に立つ方法じゃないしね。

例えばね、

あったかいお母さん。

元気にお散歩するおじいさん。

お母さんは子供が安心できるし、おじいさんもね、歩いているだけだって「あのおじいさん、お歳を召しているのに元気だなあ、スゴいなあ。」って他の人を元気づけられるんだ。

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逆にね、お金を稼いでいるからって、会社でちょっと偉いからってふんぞり返っている大人、カッコ悪いよね。

お金を稼ぐだけが仕事じゃないんだ。

人に安心を与える。

お年寄りや子供や体の不自由な人をいたわる。

困っている人を助けてあげる。

本当に偉い人はね、そういうこともサラリと出来る人。

お金を稼いでいるだけじゃ大人の役割の半分しかしていないんだ。

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そうだ。大事なこと言うの忘れてた。仕事と勉強って全然違うんだよ。

勉強が出来ても出来なくても得したり損したりするのは将来の自分だけだけど、仕事が出来るとみんなが楽になったり得したりする。逆に仕事ができないとみんなに迷惑をかける。

だから仕事が出来る人は感謝されるし、出来ない人は嫌がられる。

でも中学校はそうじゃない。

みんなが同じ制服来て、同じ時間に行って、同じことする。

みんなの役に立ちたいと思ったって、やれることなんてなにもない。

そしてみんなが話すことと言えば、面白かった映画やテレビ番組、そして人の悪口ばっかり。

そして人間関係にひたすら気を使うでしょ?

でもそんなのね、中学のときだけなんだ。

高校になるとだいぶマシ。

大学はもっとマシで、大人になれば、さらにもっと楽だよ。

オレね、中学になんてちっとも戻りたくない。

もしも魔法の杖があって、時を戻せるとしても、中学には絶対に戻らない。

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だからね。今が一番大変だけど、中学時代はいつか必ず終るんだ。

そしたら傘を畳んで、走り出せばいい。

でもおうちに籠ってばかりいたら、せっかく晴れの日が来ても、走り出せないでしょ。

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ホントに大事なことはね、実は学校じゃなくても学べる。

でもね、学校だと学びやすいこと沢山あるんだ。

それからね、本当に大切なことは、人と触れ合わないと学べないんだ。

そのことはまた別の機会に話してあげるね。

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元気を出して、時々傘をさしながら歩いていってごらんよ。

きっとまた晴れの日もあるからさ。


2012年12月26日水曜日

解答:ブラウニーを2等分する方法

さて、ブラウニーを切る方法の回答です。

まずは簡単なほう。

ブラウニーは立方体ですから、単に横からスライスすれば2等分することができます。

こんな具合ですね。 点線のところを切ります。



でもあんまりエレガントじゃないですね。

個人的には上のピースなら食べたいですが、下のピースはイマイチです。

大ゲンカ勃発は必至でしょう。

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もうひとつの方法も簡単です。

長方形の2当分の仕方を思い出してみましょう。

対角線に切ってもいいし、縦半分にしても、横半分にしてもいいですね。

しかしそれだけではありません。長方形のちょうど中心を通って直線に切りさえすれば、どう切っても2等分できます。



この理屈を利用すればブラウニーを2等分できます。

まずはブラウニーの中心と、切り抜かれてしまった長方形の中心を対角線を引いて求めます。



そして、両方の長方形の中心を通る直線を引き、そこでカットします。

これでめでたく2等分できました!





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2012年12月18日火曜日

中学はなぜイジメがエスカレートしやすいのか?

イジメって本当に深刻な問題です。

どの国でもイジメ問題はありますし、また幼稚園から会社まで広く見受けられるものです。

しかし中学校はもっともイジメが発生しやすく、また深刻化しやすい環境じゃないかと思います。

イジメについて色々と思うことをTweetしてみたので、それをまとめてみました。(あんまりまとまってませんがw)







2012年12月12日水曜日

学校に行きたくないあなたへ

オレさ、今から30年以上も前、まだ自分が学生だった頃に「学校って何のために行くんだろう?」ってけっこう悩んだりしたんだ。

成績も悪かったし、そんなに沢山友達がいたわけじゃないし、先生に好かれていたわけでもないし、目立つことなんてなかったし、つまんなかった。

親はね、「学校に行かないといい会社に入れないよ!」とか「学校に行かないとロクな暮らしができないよ!」とか言ってたけどね、なぜかオレには全然響かなかった。

だって、学校行かないと将来困るぐらい、言われなくたってまあなんとなくわかったしね。

それにけっこういい学校で出て、いい会社に入っているはずの近所のオジさんとか、毎日スーツ来てスゴくつまんなそうな顔して生きてるし。

化学とか歴史とか因数分解とか、何の役に立つのやらさっぱり分からなかったし。

近所の八百屋のオジさんとかね、どう考えても因数分解とかできなそうだったけど、別に困らず暮らしているし。八百屋のオジさんのほうが、いい大学で出てるはずのサラリーマンのオジさんとか学校の先生より楽しそうだし。

そんな訳で、学校に行く意味、全然分からなかった。

よく、学校が火事になればいいのにな、とか思ってたっけ。

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でもそれから30年ぐらい生きてみたら、やっぱり「学校に行って良かったな」って思うことが多いんだ。

もしかしたら何かの足しになるかも知れないからちょっと書いてみるね。

1)友達ができた
オレはそんなに友達が多いほうじゃなかったけどさ、それでも仲のいい友達もできたし、今でも時々会ってバカ話する友達がいるよ。みんな学校で知り合った奴らばかり。特に部活が一緒だった仲間たち。すっかり白髪頭になった今でも、会うと楽しい。もしも学校に行かなかったら、あいつらに会えなかった。

2)恋の喜びや苦しみを知った
学校でね、好きな子ができた。ちょっとお喋りが出来ただけで嬉しくてドキドキしたり。でも告白できなかったり、告白してもうまくいかなかったり。それからせっかく付き合ったのに別れてしまったり。今でも好きだった子を憶えているし、いい思い出。学校に行かなかったら、あんな想いしたのかな?

3)自分を発見した
学校に行ったから、オレは算数と国語は好きだな、ってわかったし、英語も好きってわかった。体育は好きだけどあんまり得意じゃないな、とかね。地理とか物理とか好きじゃないし、向いてないな、って。そして大学の1年で初めてコンピュータを触った時に「これだ!」って思ってさ、結局それが自分の職業になったんだ。

4)自分を客観的に見れた
クラスメイトと競争することで、自分の人よりも秀でている部分がわかった。それから好きなんだけどウマくないことも。国語なんて好きじゃないけどいつもいい点が取れたし、体育は好きだったけどあんまりたいした事なかった。

自分は勉強はたいした事ないけど、アイツよりはちょっと人に親切かも知れないな、とかさ。勉強以外のことだって、自分のありのままの力を知ることができたと思うんだ。

もしも学校に行かずにお家でゴロゴロしたり家の手伝いだけしてたら、自分が他人よりも上手にできること、ヘタなこと、あるいは人よりもいいところ/ダメなところ、何ひとつわからなかったと思うんだ。だからね、学校に行って良かった。

4)人付き合いをおぼえた
学校に行くとさ、クラスメートとか、先生とかさ、部活の先輩後輩とか、別段好きでもない人とも一緒にいろんなことをしなくちゃならない。嫌いな人だっているよね。でもね、大人になって社会に出ると、そういうことが普通なんだ。自分の親よりも年上の人と同じ職場になったり、大嫌いな人が上司になることもある。

学校ってイヤな奴もいるけど、いいヤツも、味方になってくれる先生もいるよね。

1人で出来ることなんてたかが知れているけど、みんなで力を合わせると色んな事が出来るよ。一緒に会社を作ったり、ボランティア活動をしたり。みんなの手と手を合わせれば、いろんなことができるけれども、それをするには人をの付き合い方を知ることが欠かせないんだ。

だからね、学校でそういういろんな人と出会って、色々な人との付き合い方を学べて良かったな、って思ってるよ。

5)キッカケをくれた
オレはね、歴史が好きで、歴史の本を読んだりする。でも最初に歴史を好きになったの、小学校6年生の時に習った日本の歴史だった。そこから興味を持ってね、歴史の本や時代物の小説を読むようになった。

それから中学や高校で世界史を習って、初めて自分だけで海外を旅行した時に、アンネ・フランクの隠れ家とか、ベルサイユの宮殿とかさ、色々な歴史的な建物や場所を訪ねて、とても面白かったよ。

小学校で歴史を習わなかったら、高校で世界史を習わなかったら、歴史的な場所に行ってみようと思わなかったかも知れない。

歴史の本を通じて昔の人の生き方を知ったり、憧れる人に出会ったりもした。魅力がある人は、時代なんて関係ないよね。そういう昔の人と出会うキッカケを与えてくれたのも、学校の歴史の授業だった。

それから中学のときに英語が好きになって、16歳の時からアメリカに住んだんだ。もしも学校に行かなかったら、英語も憶えなかったし、アメリカに住むこともなかったと思う。今でもアメリカに住んでいるよ。高校や大学をいれると、もう15年以上住んでいる。

6)役に立つこともいっぱいあった
オレはコンピュータのプログラマになって、アップルで働いていたけど、もしも英語もプログラミングも憶えなかったら、アップルで働くなんてあり得なかった。だからもしも学校に行かなかったら、アップルで働いて、世界中の人々の生活を変えてしまうようなワクワクする製品の開発に関わることなんてなかった。これも学校に行ったお陰だね。中学の数学はとっても大事だった。集合とか因数分解とかさ、意外と大事だった。英語もね、とっても大事だよ。世界中の人と友達になったり、ワクワクするような仕事ができるようになるんだ。

7)こんなオレでもどうにかなった
オレは怠け者だからね、もしも学校に行かなかったらいつもグータラして、きっと引きこもりになってしまったと思う。学校に行っているとさ、仕方がないから毎朝同じ時間に起きて、朝ご飯を食べてって、規則正しい生活をするでしょ? それから受験の時期になるとみんな勉強するじゃない? オレはグータラだから、一人で黙々と勉強するなんて絶対に出来なかった。みんながしてたから、それに背中を押されてさ、そして何とか高校や大学に入れた。だからやっぱり学校に行って良かったな。

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学校なんて今でも対して好きじゃないけどね、でもやっぱり行って良かった。学校に行ってね、知らないうちに学んだことが沢山あった。学校でやったはずの勉強はあんまり憶えていないけどね。楽しい人生を送るコツは、学校で学んだ勉強以外のところで学んだ気がするんだ。部活とか、友達とか。

君ももしかしたら、今は学校に行きたくないかも知れない。

でもね、自分の人生は自分で作っていくものなんだ。

親が学校に行けって言うからとか、学校の先生が怒るから、とか関係ないんだ。

自分の人生だからこそ、そして一回しかない人生を大切に生きるためにも、学校に行って様々な人と出会い、色々なことを学ぶこと、とっても大切だよ。

学校に行きたくなくなったら、時々読んでみてね。

2012年11月13日火曜日

変えられる運、変えられない運

人生ってなかなか思い通りにはなってくれません。

大切な恋人とのデートの日に大雨が降ったり、一日中仕事場から出れない日に限っていい天気だったりします。

試験の日に風邪をひき、滅多にスピート違反なんかしないのに、たまたまスピード違反をした日に限ってお巡りさんに捕まったりね、とにかくなかなか思うようには進んでくれないのが人生です。

運がいい日だってある

でもその一方で思いがけないほど運が助けてくれる時もあります。

私自身、かつて16歳の頃に海外への脱出を願っていたら、何故か交換留学生の応募試験に受かってしまいましたし、30代の半ばにいつかアメリカで働いてみたいと思っていたら、ちゃんとそういう機会に恵まれました。

人生には「あの時は運が良かった」としか言いようのないことも確かにあるのです。

運を引き寄せる

また「あの時には運を自分のほうに引き寄せたな」と感じる時もありますし、「あの時は自分で運を手放してしまった」と感じる時もあります。

野球やアメフトなどの試合を見ていても、試合の中でチーム間を運が行ったり来たりするのが見て取れます。最初は拮抗していた力がどちらかのチームがヒットを打つことなどして崩れ、そこから運が転がり始めます。走者を出したチームは運を引き寄せて次々を走者を塁に出し、得点に繋げて行くのです。

負け始めたチームは動揺してリズムを崩し、つまらないミスを犯し、肝心な所で固くなって運を手放していきます。やがて気持ちが折れ、運を投げ出してしまいます。その時点で勝敗は決まってしまいます。

ところが負けているほうのチームがスピリットを落とさず、苦しいところを凌ぎ切って行くことがあります。失敗しても引きずらず、次の打席はまるで初打席のようにまっさらな気持ちで臨み、最後まで勝ちを諦めません。一方勝っている方のチームは慢心し、せっかく出来た流れを大切にしなくなることがあります。すると運の流れが逆回転を始めるのです。

やがて運が負けていたほうのチームに味方し始めます。ヒットが出て得点に繋がっていきます。スポーツを生で観戦する醍醐味は、こうした流れを肌で体感できることでしょう。なかなかテレビではその臨場感が伝わらないものです。

生活もまた同じ

同じことは個人の人生に当てはまるのではないか……と私は考えています。

イヤな担任の先生だったあの一年間。

嫌がらせを受けたあの職場。

英語が喋れずに右往左往していた、アメリカに移り住んだばかりのあの頃。

「どうせオレなんか……」と運命を嘆いて努力を放棄し、投げ出してしまった時もあれば、なりふり構わず何とか食らいついて辛い時を凌ぎ、やがて運が自分に巡ってくるのを待てた時もあります。

こうしたことを繰り返して行くうちに、運が巡ってこない時を凌ぎ切っていく感覚というものが身に付いていくように思うんです。

身内や友人に不幸が続いたあの年。

失職したあの時。

これまでの私のつまらない人生にもそれなりに上り坂も下り坂も、そして「まさか」もありましたが、どれも凌ぎ切っていくことで、やがて運命が好転してきた時にそれに乗ることができたように思います。

勿論ダメだった時もたくさんありました。

尻尾を巻いて逃げ出したあの時。

些細な失敗で挫けた苦い思い出。

でもそうした失敗を引きずらず、むしろ糧にしていくことで、運を引き寄せ、味方にしていけるように思うんです。

挫けそうになったら

苦しい時にはトコトン苦しいことが続くものです。そしてたいして努力もしていないヤツが楽しそうに過ごしている姿が目に付きます。

残念ながら世の中にはコントロールできない運もたくさんあります。

詐欺師がデートの日に晴天に恵まれ、善人がデートの日に雨が降ったりすることもあります。

こういう大きな流れはおいそれと変えることなんて出来ません。善人も悪人も等しく晴天に恵まれ、雨に降られ、洪水や地震にも遭ってしまうんです。人間が出来ることなんて何にもありません。

しかしこうした大きな流れはある意味全員に平等ですから、嘆いたって仕方がありません。

生まれてくる場所、時代。親だって選べません。 これらは配られてしまったカードのようなものです。嘆いたって変わりませんから、手持ちのカードでどうやって運命を好転させていけるのかにフォーカスしたほうがよほどいいように思うんです。

雨の日には雨を嘆くよりも、傘を差したほうがよほど過ごしやすくなります。

運を呼び込もう

当たり前のことをコツコツとこなし、仲間を大切にし、住む場所、働く場所、交友関係を風通しの良いものし、運が入ってきやすい環境を作っていくこと……自分なりに四苦八苦してきて、そういったことがとても重要なのではないかと感じています。風通しが良ければさまざまなものが入ってきますから、良いモノを捕まえて悪いモノは手放していく。そんな感覚が大切なのではないかと思うんです。

「動かされないようにしっかりと立ち、主の業に常に励みなさい」

というのは私の好きな聖書の言葉ですが、「運」という名の神様に味方してもらうには、結局ブレない、諦めない、投げ出さない、自分の明るい未来を信じ抜くこと、ということ以外にないように思うんです。

だから明るい未来を信じて、今日の仕事を淡々と、そして着々とこなしていきましょうか。



2012年11月4日日曜日

マヨネーズの瓶と2本のビール


一昨日、フェイスブックで流れてきた話、なかなか良かったので和訳して紹介することにしました。

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ある哲学の教授が、あるものを手に教壇に立ちました。

授業が始まると、教授は手に持っていた大きなマヨネーズの空瓶を黙って教壇の上に置き、それが満杯になるまでゴルフボールを入れていったのです。

ゴルフボールが入れ終わると教授は学生たちに「この瓶はいっぱいですか?」と尋ねました。

学生たちは瓶が満杯であることに同意しました。

すると教授は、小石が入った箱を取り出し、その小石を瓶の中へ注ぎ始めたのです。教授が軽く瓶を振ると、小石はゴルフボールとゴルフボールのすき間にカラカラと入り込んでいって瓶を満たしたのです。

そこで教授はまた学生たちに「この瓶はいっぱいですか?」と尋ね、学生たちはその通りだと頷きました。

次に教授は砂の入った箱を取り出し、砂を瓶へ注いでいきました。砂は、残されたすべての隙き間を埋め尽くしました。

砂を入れ終わると、教授は再び「この瓶はいっぱいですか?」と尋ね、学生はみな再び頷いたのです。

すると教授はテーブルの下から2本のビールを取り出し、ビールを瓶の中へ注いでいったのです。ビールは砂の中へとしみ込み、2本ともすっかり瓶の中に入ってしまいました。

それを見た学生たちは大笑い。

やがて笑い声が収まると、教授は話し始めました。

「この瓶は、私たちの人生を表しています。」

「ゴルフボールは、家族、子ども、健康、友人、大事な夢などといった『大切なもの』を表しています。」

「ゴルフボールがあれば、たとえ他のすべてを失っても、あなたの人生は依然として満ち足りたものとなります。」

「小石は、あなたの仕事、家、車などといったその他の重要なものを表しています。」

「砂は、その他の「小さなこと」を表しています。」

もしあなたがこの瓶を最初に砂でいっぱいにしてしまうと、小石やゴルフボールを入れるスペースがなくなってしまいます。人生においても、これと同じことが言えます。もしあなたが小さなことに、全ての時間とエネルギーを費やしてしまったら、大切なものを手にすることはできません。」

「あなたの幸せにとって鍵となるなものを大切にしてください。」

「両親と時間を過ごしてあげてください」

「子どもと遊んであげてください。」

「おじいちゃん、おばあちゃんを訪れてあげてください」

「健康診断をきちんと受けてください。」

「奥さんをディナーに連れて行ってあげてください。」

「ゴルフをもう1ラウンド楽しんでください。」

「家の掃除やモノの修理する時間はいつだってあります。」

「人生において大切な 『ゴルフボール』 を一番に持ってきてください。」

「優先順位を間違えてはいけません。」

「他のものは、単なる砂でしかないんです。」

すると1人の生徒が手を挙げ、ビールは何を表しているのかと尋ねました。

教授は「よく聞いてくれた」と笑いながら答えたました。

「これは、

人生がどんなに手一杯に見えても、
友人と一緒にビールを飲む余裕はいつだってあること

を表しています」






2012年10月24日水曜日

信じるということ

人を信じるってどういうことなんだろうか?

時々そんなことを考えることがあります。

世の中には信じられる人と信じられない人がいます。家族だからと言って無条件に信じられるわけではないですし、逆に他人でも信じられる人は信じらるわけです。こうした経験は誰にでもあるでしょう。

信じるという行為は難しいものです。

信じると言うこと、それは「裏切られる覚悟する」ということだとなんだと思います。

相手が裏切らない保証があるから信じる、というのでは「信じている」と言うよりも、「相手が裏切らないから私も裏切らない」という一種の契約のようなものではないかと思います。

無論「相手が裏切らないから私も裏切らない」という関係や感覚のほうが普通であって、人を裏切れば信用を失うのは世の常です。

例えば神を信じるか信じないか、という話も「証拠があれば信じる」というのでは別に信じているわけではなくて、「証拠があったから認識した」というだけに過ぎません。証拠があろうがなかろうが、神の存在を信じる。仮にそれがどんなに不合理に聞こえても信じることをやめない。それが「信じる」という行為ではないかと思います。

子供が非行に走ったときなどに「信じていたのに……!」と言って涙ぐんだり罵声を浴びせるのではなく、「この子はまたきっとどうにかなる」と心の底で信じてあげるような感覚、とでも言えばいいでしょうか?無論その信頼は情け容赦なく幾度となく裏切られますが、それでも信じ続ける、というのがしばしば親の勤めだったりします。

だから冷静に考えてみると、「あなたを信じている」なんて軽々とは口に出来ません。

信頼とは「この人なら絶対に裏切らない」ではなくて、「この人になら裏切られてもいい」と思う行為だからです。

つまり「信じること」はそのまま「愛すること」なのです。

では自分なら信じられるのか?
では他人を信じるのが難しいとしたら、自分なら信じられるのでしょうか?

私は普通の意味ではあまり自分を信用していません。

自分のことを特別信用が置けない人間とも思いませんが、その一方で嘘を付いたこともあれば、決心を容易に曲げたり、はたまた信頼を寄せていてくれた人を裏切ったこともあるからです。

でも20年前、10年前に比べるといくらか自然体になれたようで、「こんなしょうもないオレだけど、まあかけがえのないオレ自身だから、自分を信じて、愛して生きていこう」と思っています。

これからも様々な決断を下し、中には間違った決断や行動もしていくのはないかと思っています。

しかしそれらは誰の決断でもない自分の決断ですから、そんな決断をしていく自分を信じて、そこから派生するさまざまな責任から逃げ出さずに背負っていこうかと思っています。



2012年10月19日金曜日

自分を創る、自分を変える

その昔、「自分探し」なんていう言葉が流行りました。

今でもそういう言葉があって、みんな自分探しに外国に出掛けたりしているのかも知れません。

もう25年近く前、私も自分がナンボのもんだか証明したいような気がして、ヨーロッパを自転車で縦断したりしました。そこから得たものなんて特にありません。ただもの凄く陽焼けして、もの凄くこ汚くなって帰ってきただけです。

自転車で外国をウロウロしたって別に「自分」とやらが見つかるわけじゃありません。あっちこっち外国見れて楽しかったです。本当にそれ以上でも以下でもありませんでした。

ところがこういう体験そのものは、意外なくらい「無形」な変化を自分に与えてくれるものです。

自分を創っていく

外国に住んでみる。異なった言語、習慣、食事の中で暮らしてみる。あるいは異国を旅してみる。こうやってさまざまな体験を積んでいくこと、その「体験」そのものが自分を創って行くのではないか……。段々とそんなふうに感じるようになりました。

自分探しで外国に行くのはちょっと動機がくだらないけど、でも外国に行って見たこともない景色を見たり、知らなかった食べ物を食べたり、通じない言語の中で四苦八苦したりすると、間違いなくモノの見方や感じ方が変わってくきます。こうやって少しずつ形が変わっていくのが「自分」そのものなんだと思うんです。

人間は自覚する/しないに関わらず、他人、環境、あるいは体験からさまざまな影響を受けて生きています。そしてそういったさまざまな体験が自分という人間を創り上げて行くように思うんです。別に外国なんか行かなくたって、先生、先輩、友達、彼女などのさまざまな人々から有形無形の影響を受けながら自分が形創られていきます。

やがて就職し、家族を持った後でも私たちは変わり続けていきます。職場の上司や同僚、配偶者、あるいは自分の子供たちからもさまざまな影響を受け、私たちはずっと変わり続けて行きます。

例えばヨットに乗れるようになったとしましょう。そして一生懸命風を掴みながら洋上に出てみます。そして知っている土地を海から眺めると、また異なった印象を受けるものです。するとほんの少しだけですが、自然に対する自分の姿勢や、よく知っていると思い込んでいた郷土の見方などが少し変わるものです。

こうやって知らぬ間に自分が少しずつ変わります。様々な人と出会い、いろんな景色を見て、いい思いや辛い思いをし、人に救われたり。蹴落とされたり……。そしていつの間にか「10年前の自分」と「今の自分」とでは、モノの感じ方や見方がけっこう異なったりするものです。

変わることを恐れない

つまり「自分を創っていく」という行為は、「自分が変わっていく」ということと同じことです。

行く先なんて分かりません。でも勇気を出して、変わってしまうことを恐れず、新しい風に自分の身を任せていくことが大切なんだと思うんです。そこにまた新しい出会いや発見があります。

自分がどのように変わっていくのかは前もって予想できません。しかし新しい体験を得る面白さは、こうした意外性にあるんだと思います。

語学を憶えようと思って外国に行ったら麻薬を憶えてしまったなどの、好ましくない変化もあり得るでしょう。でもそんなことを恐れていたら、自分を変えていくという希有な体験を逃してしまうように思うんです。

子育てもまた「わからない」

子どもの教育について考えてみましょう。

幼稚園に行かせ、小学校に行かせ、中学に行かせます。子供自身があちらこちらでさまざまな人と出会い、さまざまな体験を重ね、その子が少しずつ出来上がってきます。しかし、その子がどんな体験をし、どんな大人になっていくのかなんて実は誰にも分かりはしないんです。本人でさえもわからないでしょう。

上の学校に行けば行くほど、親の手を離れていきます。どの親も、自分の子供が良き先生や先輩、あるいは友人に恵まれ、自立した大人になってくれることを願うでしょう。しかし実際のところは本人次第。いや、ほとんど運次第だと思うんです。

もしも子供に教えてあげられることがあるとしたら、「その時その時を一生懸命生きろ」ということだけではないでしょうか?

自分の人生も、あるいは子育ても、どこに向かっているのかさえ分からない、旅路のようなものです。

私たちに出来ること、それは旅路そのものを楽しむくらいのことでしょう。







2012年10月14日日曜日

限界設定の難しさ

よく心理学の本などに出てくる言葉に「限界設定」という言葉があります。

Boundary settingとかLimit settingという概念が日本語化されたものですね。

要するに子育ての際に、「ここから先はダメ」という壁を作ってあげる作業です。

「ゲームは1時間でヤメなさい」とか「10時になったら寝なさい」とか、「ご飯は好き嫌いしないでちゃんと食べなさい」とかそういう類いのことです。

よくスーパーの中でヒックリ返って泣き叫んでダダをこねているお子さんがいますが、あれは限界設定ができていない典型的な例と言っても良いでしょう。

限界設定の難しさ

限界設定は考えている以上に難しい作業です。子育てをしていく中でもっとも難しいことのひとつなのではないかと思います。境界を設けて徹底させるのはホントに楽じゃありません。

限界設定をする際、まず「何を境界とするのか」。これをキチンと決める必要があります。そしてこの作業は夫婦でやらないとうまくいきません。

よくお母さんが「9時だから寝なさい」とか「甘いものばかり食べるんじゃありません」などと言って、限界設定をしようとしているのにお父さんが横から「いいんだよな〜」なんて言って崩してしまうことがあります。逆のパターンもあるでしょう。

子供だってああせい、こうせい、言われて嬉しくもありませんから、どちらかの親が甘いことを言ってくれれば願ったりかなったりです。

また夫婦が一致しててもおじいちゃんおばあちゃんがメチャクチャをやってしまう、などというのもあります。たまにならまだしも、祖父母が近所に住んでいたりしてチョクチョクやられると本当に厄介です。

また親の言うことがそれぞれで違うんじゃ子供だってどこが壁なのか分かりません。

だから「何を壁にするのか」は夫婦で合意できていることが基本です。

境界をブラさない

せっかく境界を決めたのに、すぐにブレてしまうお父さんお母さん、結構います。

ダメなものはダメ。そこからブレないことが肝心です。今日はいいけど明日はダメ、では子供が混乱してしまいます。 子供が不憫になってしまったり、また親の機嫌で境界を変えたり…。これでは壁として機能しません。

お友達の家ならいいけど、自宅ではダメとか、そんな複雑なルール、子供には理解できませんし、今度は理解できるようになると、こういうブレているところを見つけて揺さぶりをかけてきます。子供の学習能力を侮ってはいけません。

何を伝えたいのか

よく「子供が車に乗ってくれないから帰れない」などというお母さんがいます。そして延々駐車場にいるのです。しかしそこは子供の意思を尊重するシーンじゃありません。帰る時間になったら帰る。そういうルールを教える機会なんです。問答無用で乗せてしまう。これを3回もやればもう「乗らない」問題は解決してしまいます、「お母さんはブレてくれない。」それが分かれば言うことを聞くようになるものです。ブレると分かればトコトン揺さぶりをかけます。子供の仕事は壁を乗り越えて行くことなんですから、それは当然のことです。

また子供が従ってくれないからと、モノで釣るお母さん、沢山います。「もう帰る時間よ」「ヤダ!」「お菓子買ってあげるから帰ろう」などなど……。子供が大きくなったらいったい何で釣るのでしょうか?モノやプレゼントでつっていると、子供はそういう取引を憶えていきます。結局「何を学ばせたいのか?」という問題なんだと思います。

また怒鳴ったり殴ったりしていうことを聞かせると、結果として子供も殴ったり怒鳴ったりして人を従わせてもいいと学習してしまいます。ここもまた「何を学ばせたいのか?」という問題なんだと思います。暴力で人の意志を曲げてもいいと学習させたいのか?という問題です。

萎縮させてはいけない

しかし子供があんまり萎縮してもいけないので、どうしても今日は長く遊びたい、などといった場合には、キチンと主張するよう訓練するのがよいと思います。普段キチンと限界設定をすることで、逆にこういう機会を作りだすこともできると思います。

また子供も発言をする機会を与えることも重要でしょう。最初は外食の行き先といった些細なことから始め、駄々をこねるのではなく、きちんとした発言しやすい空気を作っていくことも大切なのではないでしょうか?

ぶん殴るとか怒鳴りつけるなんてもってのほかです。私は自分もそうされ、子供にも何度かそうしてしまいましたが、子供が萎縮して歪むだけです。暴力はヤメておきましょう。

何のために限界設定するのか?

では最初のところに戻って、そもそも限界設定をなぜする必要があるのか考えてみましょう。

ひとつは社会性を身に付ける、というコトだと思うんです。社会で通用する立ち振る舞いですね。恥ずかしくない生き方。キリスト教のように「神様がいつも見ているよ」というのもひとつのアプローチでしょう。いずれにせよ、人が見ていようと見ていまいと人として情けないこと、恥ずかしいことはしない、ということを教えていく方法のひとつとして、教会に行くのもひとつのやり方でしょうが、キチンと型に嵌めて教育するいう方法もあると思います。昔風の言葉で言えば、「躾」ですね。

もうひとつは敢えて擬似的に壁を作ってあげることで、反抗期を迎えるために必要な要求不満を与えて あげる役割があるんじゃないかと思うんです。

「ああせいこうせい」と言われて嬉しい子供はいません。14歳ぐらいになると、段々「お父さんの言うことはおかしい!」などと言い出します。これはすごく健全な話だと思うんです。

あるいはウチの親はウザいからと友達との世界を構築し始め、段々そっちに引っ越してくれる。そうやって自立する。だからある年齢に達するまでは親はウザいぐらいでちょうど良いのではないかと思うんです。

本格的にウザがって、段々親離れできてきたら、段々目線を下げていってもいいと思うんです。親目線から、「少し先を生きる先輩」の目線へ。「ああしろこうしろ!」から「オレだったらこうするけどな」へシフトしていくんです。これがなかなか難しいですね。

以下5年後に加筆



さて、5年が経過して子育てが終わりましたが、この文章を最初に書いた頃は子供が思春期真っ只中で、本当に四苦八苦しました。僕は子育てを心からエンジョイさせてもらいましたが、あの数年間だけには戻りたくないな、としみじみ思うくらいです。

振り返ってみると、子供のご機嫌をとって妥協せず、でもちゃんと寄り添って話を聞いてあげてあげるのが鍵だったように思います。結局子供は大人の本気を試しているんです。とことんまで付き合ってあげるしかないです。そして子供が思春期を抜ける頃、壁は必要なくなります。親子というよりは良き友人になれます。そういう脱皮の季節が、思春期なんです。ただ、脱皮は本人も周囲も苦しいんですね。

さて、取り留めなくなって来たので、これについてはまた次回。

関連記事:牛乳石鹸のCMに感じる15の違和感



2012年10月11日木曜日

書評:外資系の流儀

みなさんは「外資系企業」と聞いてどんな印象を抱くでしょうか?

なんか厳しそう。

給料が良さそう。

オフィスがキレイ。

突然クビになる。

……。

……。

きっとさまざまなイメージを持っているのではないかと思います。

どれもそれなりに正しいと言えますし、正しくないとも言えます。 外資系の企業に勤める人は日本の人口のわずか1パーセントだそうですから、実態がよくわからないのも無理がありません。私自身も実際に勤めてみるまではイメージだけが先行している謎の組織といった印象だったのです。

さて、今年の5月のある日、佐藤千恵さんという方からメールをいただきました。

佐藤さんはかつてNHKでディレクターをいらした方で、ご自身も外資系歴10年といった方です。そんな彼女、外資系企業について本を執筆中ということで私への取材の依頼だったのです。

そこで私がまだアップルジャパンに勤めていた頃の印象を中心にお話させて頂きました。

さてそして先月、遂に出版に至ったということで佐藤さまよりご献本頂きました。この場をかりて御礼申し上げます。

早速読んでみましたが……。面白い!

著者の佐藤さん、私の他にも非常に多くの外資系企業関係者にインタビューを重ねており、外資系企業の実態を多角的に浮き彫りにした一冊です。

私自身もアップル以外は特に外資系企業を知っていわけではありませんから、「へえ〜」とおもしろおかしく、それでいて実に興味深いエピソードが引っ張られて、あっという間に読んでしまいました。

一番腑に落ちたのは、外資系日本法人の多くは、本社の「植民地」であるという件。実に的を得ています。往々にして外資系企業には決定権や裁量権がほとんどありません。すべて本社に決められ、いちいち本社にお伺いを立てないと何一つ出来なかったりします。

外資系企業に勤めてみたい方には面接のやり取りなどや勤務の実態、職場のカルチャーを知る上で非常に得ることの多い一冊になるのではないかと思います。

日本企業も明日はどうなるのか分からない今日、転職を視野に入れている方にもおすすめです。

また単なる野次馬根性で読んでも相当面白い一冊です。

ぜひお勧めします。

関連記事:グローバル企業のトップはみんな猛禽類


2012年10月10日水曜日

自尊心はほどほどのサイズで

23歳の時、プログラミングと英語を憶えて日本に帰ってきた。

そしてコテコテの日本企業に就職した。

親を安心させたい気持ちもあったし、おそらく激しく「アメリカかぶれ」しているであろう自分を、「日本人」に戻したい、というような気持ちがあって、そんなコテコテの企業を選んだんだ。

振り返ってみると、この選択はとっても間違っていたんじゃないかと思うことが多い。

そもそもオレは人と同じように振る舞ったりするのが得意ではないし、そういうことを強く要求される会社に入るよりも、鼻っから外資系に入社したほうがよほど良かったような気もする。大体外資系のほうが給料がずっといいし。

しかも外資系から内定を貰っていた。なぜ行かなかったんだろうか?

今考えても謎である。

就職した会社には色々と不満があったが、とにかく不満だったのはその安い給料だった。

いま振り返ってみると、自分はかなり評価されていたのではないかと思う。何しろ就職1年目から海外出張だったし、海外の取引先と直談判などということをやらせて貰えた。入社1年目のエンジニアなのに。英語が堪能でコードが書けるというのは随分有利だったと思う。

でも笑えるくらい薄給だった。まあ日本のメーカーの1年目なんてどこも似たり寄ったり。今でもきっとそうだろう。それでもこれが一番不満だった。よく仕事で徹夜もした。そのこと自体はいい。デバッグしてれば一晩ぐらい飛んでしまうのはよくある話。それにそんなことでもしなくちゃどうせカネなんか貯められないようなレベルの薄給。日本の若手エンジニアの青春だよね。

当時付き合っていた女の子はスッチーで、彼女の給料は俺の倍も良かった。これがまたなけなしのプライドを打ち砕いてくれた。まあでも考えてみると、よく俺みたいなつまんない薄給の男と付き合ってくれたよな。

いま振り返ってみると、俺はアメリカで学生時代を過ごしたことで、自己を肥大させ過ぎたような気がする。

俺はあんなこともこんなことも出来るのに、なぜこんなに薄給なんだろう……。っていつも思っていた。

そしてたった3年で会社を辞めてしまった。

なんで俺は薄給という点を除けば「やりがいのある仕事」に満足できなかったんだろう?アメリカの価値観に染まり過ぎていたんだろうか?

当時はそんなことばかり考えていた。

進路

もっとすぐに評価されて世の中の役に直接たって、そして自分の頑張り次第で収入を増やせる職業に就きたかった。

そこで柔道整復師になろうかと考えた。専門学校に3年行って国家試験に受かれば、開業も夢じゃない。すぐに人々の役に立つし、老人は増える一方だから食べていくには困らないだろう…。そんなことを考えた。そこで受験勉強を始めたのだが、親はカンカンだった。

「お前を接骨医にさせるためにアメリカの大学を出したんじゃない!!」

頭の固い親は怒りだした。確かに親が怒りだすのも分からなくもなかった。留学の費用を出してくれたのは他でもない親なのだし。

そんなふうにぐだぐだと迷い続けていたらスッチーの彼女にも振られ、まったく自尊心もヘッタクレも無かった。

結局その後1年もしないうちにアップルで働き始めて給料の問題などすぐに解消してしまうのだが、そんなことは当時分からなかった。だから本当に落ち込んだ。

自己承認

さて以上は前置き。考えてみたかったのは自尊心の問題なのだ。

今の世代は「自分の気持ちが一番大切」なんて言われて育てられるし、少子化だしで、多分みんな当時のオレと同じぐらい自尊心が肥大しているんじゃないだろうか?

でも給料を払ってくれる人が評価してくれなきゃカネは貰えないんだよね。あなたの自尊心が大きくても小さくてもそんなことは関係ないんだ。

そして自分が雇用する側になってみて分かること。それは、労働者の賃金って要するに経費なんだよね。機材のリース料と対して変わらないんだ。だから薄給に決まっている。それがいやならのし上がるなり、経営側に回るしかないんだ。

ただ自尊心があんまり大きいと結局損することが多いと思う。自分のことを何様だと思っているから、何を得てもなかなか満足できない。働けないニートなんて実はこういう発想なんじゃないだろうか?オレ様がやるべき仕事は、すごくやりがいがあってすごくお金が貰えて、すごく名誉がある仕事、みたいな。

そんな仕事がたとえあったとしても、ニートの君には絶対に廻ってこないって。

だからつまらない自尊心はどっかに捨てて、気持ちを軽くしようよ。

あの頃オレの自尊心を木っ端微塵に打ち砕いてくれた、様々な出来事や人々には、感謝しています。



2012年9月25日火曜日

子供という名の装飾品


子供は親のアクセサリー??
子供って親のアクセサリーなんじゃないか?って思うことがあります。

僕らが生まれた頃から、子供は自然と出来てしまうものから、計画的に作るものに変わったように思うんです。

で、なんのために作るのか、っていうと「幸せな家族」というフィクションを演じるためです。

どっかのホームドラマみたいに、働き者だけどおっちょこちょいのお父さん、そんなお父さんをやさしく見守るお母さん、真面目で勉強の出来るお兄ちゃん、おしゃまな妹、そしてお調子者の末っ子、みたいな。

そしてそんな役柄をみんなで一生懸命演じるんです。

引き立て役としての子供
わざわざ計画して作る子供ですから、自分の役を引き立ててくれなくちゃ困ります。

昔みたいに偶発的に出来ちゃった子が、しかも沢山いるならまあ一人くらい鼻水垂らして走り回っててもいいでしょう。でもこの時代は子供って限りなく親の装飾品じゃないでしょうか?

せっかく計画して作って、その物語を維持するために汗水垂らして働いているのに、子供がこ汚くて、鼻水たらしてて勉強もできず、ケンカばかりなんていうのじゃ装飾品になりません。

お母さんもお母さんなりに演じたい役があります。いくつになっても素敵なママ。物わかりが良くて、やさしくて、子供が間違いを犯すとやさしく諭してくれます。

まあお父さんとお母さんはこれを意図してやるんですからまあいいでしょう。

でも子供は親を選べませんから、なんか自分のキャラに会わない役柄を押し付けれられたりすると大変です。

オマケに妙に気合いの入った名前とか、あるいはヘンなDQNネーム付けられたりね。

そしてミキハウスかなんかの服を着せられてね。連れて歩くと可愛い子をやらされたりします。

旅行に行けば写真やビデオを撮られ、なんでもかんでもフェイスブックやらブログやらにアップです。

端的に言ってしまえば、プードルとかそういう愛玩犬とさほど変わらないような気がします。

その役は合っているのだろうか?
役柄と地のキャラが合う子はいいんです。でも、なかなか両親が望む役柄は演じきれません。

だから、段々と子供に自我が芽生えるとなかなか思い通りの家族ドラマになってくれません。

自分の子供の時を振り返ってもね、なまじ高学歴で裕福な家に生まれたから、そういう期待値に沿って生きるの、けっこう大変でした。今でもちょっと失敗すると、なんだかシナリオを演じ切れてなくて申し訳ない気がしたりします。

私も90年代に2人の子供の父になりましたが、子供にそういう装飾品的な役割を期待していなかったか?と聞かれると否定しずらい部分もあります。

別にプランド品も着せなかったですし、DQNネームを付けませんでしたが、「そこそこ人並みに」という逆にかえって演じにくい役柄を期待してしまったような気がします。

人によってはいい高校、いい大学、いい就職先と色々期待するものもあるでしょう。しかし子供がそういう道を歩みたいかどうかは何とも言えないものです。

フィクションという自覚
ただ、子供に何も期待せずに育てる、というのも実際問題として難しいでしょう。

だから何だって期待してもいいような気もしますし、適度にフィクションの役側を押し付けることも、まあいいんじゃないかな?って思っています。

ただ、「これはフィクションなんだ!」っていう自覚が親側に必要なんだと思います。そうすればね、そのフィクション通りにならなくても別にそんなにショックも受けないでしょう。

そして健気にフィクションを演じてくれる子供がいとおしく思えたりします。

私はこれから子供の学費がかかる時期ですが、家族という物語の仕上げ編なのでしょう。

まあせいぜい一生懸命お金を稼いで、これまで役柄を演じてくれた子ども達に恩返しをしたいと思います。



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2012年9月17日月曜日

ジッポライター

グレッグ(仮名)は派遣社員として、とあるフルーツのロゴの会社で働いていた。

グレッグは驚くほど仕事ができた。

コードもバリバリ書けるし、レポートもしっかりしている。面倒見がよくて人望も厚い。

やっと二十歳過ぎの高卒とは思えなかった。

彼の上司は彼を正社員として雇うことにした。

グレッグは大喜びだった。

ところがグレッグの正社員昇格はあえなく潰えてしまった。

グレッグには少年時代の犯罪歴があったのだ。

18歳未満で犯した犯罪は5年間記録に残ってしまう。

グレッグは正社員になれないばかりか、派遣社員の立場さえをも追われてしまった。

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グレッグは中学生の頃、事故で父親を亡くしてしまった。

お父さん子だった彼はあっという間にグレ始め、タバコ、薬、暴力事件をエスカレートし、やがて警察から逃げようとした挙げ句、車を大破させて御用となった。

それが17歳の時。

腹を立てた母親は身元引受人になることを拒み、グレッグは留置所で1週間を過ごした。

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そんな彼を変えたもの。それは父親の形見のジッポライターだった。

あるときスノーボードに行ったグレッグは、リフトの上で一服しようと、タバコをくわえ、ライターで火をつけようとした。ところが

ポトリ

とライターが彼の手から、遥か下の雪面へ落ちていった。

グレッグはリフトを降りると慌ててライターを落としたところに戻り、ライターを捜し始めた。

2メートル以上もの新雪が積もったばかりのスキー場。

そこでグレッグは日が暮れるまで雪を掘ってライターを捜した。

が、そのジッポライターは遂に見つからなかった。

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「死んだ父親にさえ見捨てられたような気がしたんですよ」

グレッグはその時のことを振り返って言う。

グレッグはその日を境に変わった。真面目に勉強をはじめ、独学でプログラミングを憶え、派遣社員として何社かを転々とした後、冒頭にある通りフルーツのロゴの会社にやってきた。

が、努力は実らず、つまらない若かりし頃の犯罪歴のせいで、正社員への道は途絶えてしまった。

しかし彼はそんなことではめげなかった。

働きながらオンライン大学の授業を受講し、4年かかって卒業証書を手に入れた。

その頃、17歳の時の犯罪歴がようやく記録から抹消された。派遣社員として転々としていた彼は、再びフルーツのロゴの会社へやってきたのだ。

以前自分を正社員にしようとしてくれた上司はもう居なかった。その部署のトップは背の小さい日本人になっていて、職場の雰囲気も以前とはずいぶん変わっていた。果たして2度目のチャンスはあるのだろうか?

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その頃オレは、フルーツロゴの会社で、ちょっとばかり偉くなって40人ほどの部下の面倒を見る立場になった。

最近臨時採用した契約社員のグレッグは、目を見張るほど仕事が速い男だった。にこやかで腰が軽く、努力を惜しまない。そんな彼の真摯な姿勢に共感を憶えたし、その辺の正社員よりもよほど仕事ができた。

そんな折り、一名の退職者が出たので、グレッグを正社員にして穴埋めしようと考えた。

グレッグをオフィスに呼んで本人の意向を確認してみた。すると:

「松井さん、お言葉は嬉しいんですけど、俺、17歳の頃に犯したつまらない犯罪歴があるんで、多分正社員にはなれません。」

「えっ、そんでお前今歳いくつ?」

「25です。」

「じゃあもう消えてるじゃないの?」

「そうなんですけど確認しようもなくて。それに5年じゃなくて8年経たないと消えないと聞いたこともあるし…」

「まあまずは確認しようぜ」

「はい…。」

そんな会話があって、オレは人事部の友人に掛け合って、内密に彼の記録をチェックしてもらった。

すると、犯罪歴は抹消されていたのだ。

その2週間後、彼は正社員として仲間の一人に加わった。

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それから10年以上の月日が経ち、グレッグはフルーツのロゴの会社から検索会社に移り、そして今ではソーシャルネットワークの会社で働いてる。

オレは彼となんとなく馬が合い、時々一緒に酒を飲んだり飯を食ったりする。

留置所に迎えてきてくれなかった母、無くしてしまった父親のライターが彼の背中を押してくれた、と彼は言う。

今、思春期の子供を持ち、苦労している親御さんも多いだろう。

オレもそのうちの一人で、色々と手を焼いている。

グレッグは稀な例なのかもしれない。

でもグレッグは確かにいて、そして今日もくったくなく笑い、激しく仕事をし、仕事の合間にトライアスロンやスノボに明け暮れている。

躓いてきた男のほうが、むしろ魅力があるのかもしれない。

彼を笑顔を見ていると。いつもそんな気がする。



2012年9月12日水曜日

引きこもり予備軍の糞袋くんへ(Pt .3)



Pt .1 はこちら

Pt .2 はこちら

1年ぶりに日本に帰ってきた。

もう一度高校2年生をやり直しとなった。
アメリカの高校では、何も分からずにただ1年間教室に座っていただけなので、なんの不満もなかった。むしろやり直しの機会ができて嬉しかった。

帰ってきた直後に自分のその後に大きな影響を及ぼす2つの出来事があった。

ひとつは弟の病気。

オレがアメリカの行っている間に、弟が極めて稀な骨の病気にかかってしまい、手術を受けなければならないという事態が進行していたのだ。

スポーツ万能の弟は高校も体育推薦で進学。しかしこの手術は彼のスポーツ選手としての終わりを意味するのかもしれなかった。彼がスポーツを失うことは、オレが水泳を失うのとはあまりにもレベルが違った。オレはせいぜい県で2、3番だったけれども、彼は全国区で活躍してた。スポーツは彼そのもの、と言ってもいいような弟に15歳でこの運命はあまりに過酷だった。以前はオレのことで憔悴し切っていた親が、今度は弟の病気のことで憔悴し切っていた。

掛ける言葉もなかった。彼は一体どうやってこれからを生きていくんだろうか?

この出来事は静かに、しかし強烈にオレの背中を押してくれた。
しかし弟のためにしてあげたことと言えば、アメリカから買ってきた大きなビーチタオルを渡しただけだった。現実にしてあげられることなどなにもない。運命をしずかに享受する弟が可哀想でならなかった。

もうひとつは出会い。

この頃初めてあこがれの対象になるような大人に出会った。成り行きで習い始めた合気道の先生。まだ30代と若く学歴もないこの先生は、バイタリティとフットワークの軽さを生かし自分の商売を大成功させていた。副業の道場も大繁盛。この人は、今まで会ったどんな大人とも違っていた。どこかで聞いたような能書きを垂れるのではなくて、なんでも自ら実践し、アツい言葉で自分の夢を語った。その後アップルで管理職になったときに役に立った「失敗を恐れずに繰り返す」、「人の統率のしかた」、「勇気の与え方」、「オープンな雰囲気の環境作り」などはすべてこの時に学んだ。

以前は将来の目標なんてなかったけど、なんとなくおぼろげながら、英語を生かした仕事に就きたい、と思いはじめた。そのためにアメリカで大学に行こう。そう決めた。そして人生で初めて自主的に勉強を始めた。

どうせ頭が悪いので、あれこれやるのは止めにして勉強は英語だけに的を絞った。デル単の丸暗記とペーパーバックの乱読とTOEFLの問題集を繰り返しやり込む。これだけを1年半続けた。

すると不思議な事に、英語しか勉強していないのに他の教科も成績が上がったのだ。もっとも留学以前のレベルがあまりにも低かったし、底辺高校だから上がったと言っても知れているが、勉強をしているうちになんとなく脳が活性化したのではないのかと思う。

最初のうちは30分勉強するのさえ苦痛だったのに、いつの間にか3時間以上続けて勉強できるようになった。やがてすべての授業中に英語の本を読むようになった。段々と起きている時間は全部英語の勉強という感じになってきた。

塾も何も行かずにただ家で勉強を続け、高3のはじめ頃に初めてTOEFLを受験してみた。

430点。

アメリカの大学に進学したかったら最低500点は必要だった。

冬に2度目。

470点。

なんとなく感触が掴めてきたので渡米資金を作るためバイトを始めた。

友達が進学や就職で忙しくなった頃、取りあえず語学留学の手続きを整え、バイト代を叩いて片道切符を買い、ひっそりとアメリカに渡った。

そして渡米直後に3度目のトライ。

500点を越えた。

その9月から糞袋だったオレは大学生になった。

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引きこもり予備軍の糞袋くんたちへ

「やれば出来る」は本当だったよ。

オレみたいな糞袋でもどうにかなったから、多分君も大丈夫。

自分のダメなところに正直に向き合おう。辛辣な批判を正面から受け止めよう。多分それが糞袋卒業の第一歩。

友達への見栄とか親がうるさいとか関係ないんだ。

生きていくのは君自身なんだからさ。

そんなこと言っているうちは君は君自身から逃げている。

逃げない。誤摩化さない。言い訳を探さない。

大丈夫。きっと出来る。

まだ見たこともない世界が、君を待っているよ。









2012年9月10日月曜日

引きこもり予備軍の糞袋くんへ(Pt .2)


Pt .1 はこちら

そんな訳で16歳の夏休み、オレはアメリカに留学してしまった。

行き先はオハイオ州という中西部の田舎だった。保守的な土地柄で、共和党の支持者が多く、オレが通った高校には広島に原爆を落とした人の孫が通っていた。日本のことなんてだれも知らず、「日本に侍はいるの?」とか「日本にもテレビはあるの?」などとトンチンカンなことをよく聞かれたっけ。

オレを置いてくれた家は、もう成人して家を出た息子から、まだ小学生の末っ子まで4人も子供がいる、敬虔なクリスチャンの一家だった。お金のない家で家計は常に汲々としていた。よく異国からやってきたオレを引き受けてくれたと思う。

英語なんてまったく出来なかった。

どのくらい出来なかったかと言うと、例えば"Behind"(後ろ)っていう単語さえ知らなかった。現在完了とかもさっぱり分からなかった。英語の実力は中2ぐらいでストップしていたと思う。

この程度で日本から逃げ出したい一心でアメリカに住んじゃうんだから、まったくバカとしか言いようがない。

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アメリカに行ったからと言って急に何が変わる訳じゃなかった。

相変わらずバカで甘ったれた根性なしで糞袋のままだった。

いや、むしろ「糞袋化」がさらに進んだかもしれなかった。

何しろ言葉が何も喋れないから、誰とも意思の疎通を計れない。毎日ただただ学校と家を往復した。テレビもラジオも授業の内容も、周りが喋っていることも何ひとつ分からなかった。

「なんでこんなところに来ちゃったんだろう?」

毎日そう思ってた。自分で望んできたのに。

80日以内に日本に戻れば、落第せずに復学できる。

そんなことばかり考えてた。そこがイヤで逃げてきたのに。

わからないなりに、英語を理解しようとし続けるからだろうか?毎晩7時には睡魔に襲われ、赤ん坊のように11時間くらい眠っていた。一日中無言で11時間睡眠。オレをホストした家族は不気味だったんじゃないかと思う。

===============

日本いた時には親や教師との関わりが煩わしくて、自分に都合の悪い話には耳を貸さず、むやみやたらと反発してた。

「引きこもり」も同じなんじゃないだろうか?自分に都合がいい情報だけを取捨選択して生きている。

親が泣くようなことばかりしてた。

言葉ではまったく敵わない大人たちへの「親の言うなりには生きないぞ!」という、自分なりのアピールだったのかな…… と思う時もある。

しかしそれを親の庇護の元でやってたんだから、まったく「甘ったれの糞袋」だった。そんなに親がイヤなら家出でもすればいいのに。

でも異国の地でこうして「孤独」になってみて、自分がナンボのモノなのか、初めて考えさせられた。

自分の甘ちゃんぶりが身に沁みた。

言い訳もハッタリも屁理屈も何も言えない状況になって、

「自分の力で、裸で勝負しなくちゃ何も拓けない」

って初めて気が付いたような気がした。

当時はこんなふうに冷静に分析してた訳じゃない。

毎日が自分なりにサバイバルだった。

この素敵な家庭に嫌われないようにと、買い物やら薪割りやら率先して手伝った。

小学生の弟から少しずつ英語を憶えた。

完全なバカではないことを証明しようと、あまり英語を必要としない数学だけは一生懸命やった。

陸上部に入った。

1年間があっという間に過ぎて、少しばかり英語が喋れるようになった。

ホストファミリーとは本当に家族のように打ち解けた。

友達も出来、彼らとは今でも付き合いが続いている。

アメリカでもいろんな人の無償の愛を一方的に、無自覚に受けながら1年間を過ごした。

無能でバカだったオレにも居場所が出来た。

===============

そしていよいよ帰国の日。

空港で家族と別れて歩き出したら、どっと涙が溢れてきた。

前が見えないほど涙が溢れる、という体験を生まれて初めてした。

ありがとう。

搭乗口に寄りかかるようにしながら、やっと飛行機に乗り込んだ。

この世と別れる時にも、こんな気持ちになるんだろうか。

さようなら。アメリカ。さようならオハイオ。
まるで当然のことのようにオレをサポートしてくれたホストファミリー、学校の先生、そして異国の友人たち。さようなら。

あなたたちのことは絶対に忘れない。





つづく







2012年9月9日日曜日

引きこもり予備軍の糞袋くんへ(Pt .1)


今から30年前のこと。

それ頃のオレはかなりダメでどうしょうもなくて、誰も聞いたこともないような偏差値の低い新設高校に通っていて、そこでもクラス45人中43番の成績だった。学年450人のうち、多分440番ぐらいだったろうと思う。正真正銘の「バカ」だった。

英語もしゃべれなかったし、それどころか日本語だって他人に通じていたのか定かじゃない。

「あなただってやれば出来るのよ」

と言ってくれたのは母親だけだったが、そんな言葉、はなっから信じてなかった。それに「あなたはやっても出来ない」なんていう母親、世の中にあんまりいないと思う。

もしあの頃誰かが未来からやってきて「君は10年後アップルコンピュータで働いている」なんて言ったら絶対に信じなかっただろう。例えばそれが空から降りてきた天使の言葉だったとしても信じなかったと思う。46歳の今よりも、16歳のあの時のほうが未来に希望がなかった。くだらない悪さをしては警察に捕まったり停学になったりしてて、なんだか生きてるのが申し訳ないような感じさえあった。

そんなオレが変わり始めたキッカケは偶然耳にした両親の会話だった。

母:「あの子はまた○○をやってないのよ。もう高校生だって言うのに一体どうするつもりなのかしら…」

父:「アイツは所詮その程度のヤツなんだよ。まあしょうがないな。オレたちの育て方が悪かったんだろ。」

吐き捨てるような父の言葉。

オレはそのまま静かに2階の自分の部屋に上がっていって、長いこと動けずにジッとしていた。

父親の言う通りだった。オレは確かに「その程度のヤツ」だった。人生の中で「情けない」と思ったことは何度もあったけど、この時が最初で、そして一番強烈に「情けない」と思った。

そんなショックを受けても、それでもまだ何ひとつ変われた訳じゃなかった。

宿題も試験勉強も何もせず、成績は更に下降して完全にビリだった。

そんなどうしょうもないオレにもひとつだけ特技があった。

小さな頃から習っていた水泳だけは得意で、中学の頃には県大会で2位になって、全国大会に出たこともあった。そんなオレが通っていたスイミングクラブの選手コースには横須賀の米軍基地からアメリカ人の高校生が2名通っていたのだ。2人ともなんとなく気があったので、コイツらともっと話ができたらいいのにな、って思ってた。それが刺激になったのか、少なくとも中学時代は唯一英語だけはちょっと成績が良かった。そのスイミングクラブのヘッドコーチは英語がペラペラで、子供心にカッコいいと思ってた。多分、そのころ尊敬の念を抱いていた唯一の大人だった。

そんな唯一の特技の水泳も中3の夏のシーズンを最後に止めてしまって、本当に何にもしていなかった。今みたいにネットがある時代だったら、多分そのまま引きこもりになってしまったと思う。そのくらい何もしていなかった。

ただ飯を食ってウンコを製造しているだけの「糞袋」だった。

そんなある日、いつも通り授業中に軽口を叩いて友達を笑わせていると、先生が叱りもせずにふと真顔になって

「松井は将来何がやりたいの?」

と聞いてきたのだ。オレは、

「今なんか材料工学っているのがあるんでしょ。形状記憶合金とか。そんなの研究したら面白いかな?」

多分数日前にNHKかなんかで観たんだ。思いつきでそんなことを言った。すると先生は

「ふ〜ん。まあお前には絶対無理だね。」

と言い捨て、また授業に戻っていった。

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何もかもなかったことにして消えてしまいたいと思い始めていたその頃、たまたま「交換留学」という制度があることを知った。

オレは俄然惹かれていった。

留学なんてまだ一般的ではなくて、名門進学高に通うような秀才だけのモノだった。だから受かるなんてこれっぽちも期待せず、単なる冷やかしで受験した。

筆記試験と面接試験があった。
筆記は設問さえも英語だった。問題の意味もよくわからず、なんか書いて提出した。

面接試験では 「もしアメリカ人の同級生に『君の英語は下手だなあ』ってからかわれたらどうしますか?」と聞かれて

「ぶっ飛ばします」

と答えたことだけを憶えている。面接官はそれが壷にハマったらしくハンカチで涙を拭きながら笑っていた。

それからしばらくしたら、なんと合格通知が来てしまった。

もし海外に行ってしまえば、しばらくここから消えられる。1年日本にいなかったら、なにもかもリセットできるんじゃないか…。そんなふうに考えたんだ。英語を学ぼうとか異文化吸収したいとかそんなことはこれっぽっちも考えてなかった。

なぜ受かったんだろうか?それは今でも謎過ぎる謎だ。多分手続きの間違いだと思う。

そして1年消えたんだ。ニッポンから。

甘ったれで、役立たずで、能無しで、ただの糞袋のオレが、「所詮その程度のヤツ」と言い捨てた父親の愛情に甘え、お金を出してもらって。

アメリカに行ったからと言って何かが急にどうなった訳じゃない。でも何かがちょっとだけ変わったんだ。

続く





2012年9月3日月曜日

未来のビジネスの形

7月下旬に日本に一時帰国した際に、ビジネスメディア誠の編集部のお計らいにより、畏れ多くもあの佐々木俊尚さんと対談することができました。

この時に私はグローバル化が社会にもたらす影響や未来の仕事の形などを話し合えたらと考えていたのでそういった提案をしたところ、編集部の方も佐々木さんも快く引き受けてくださり、思いがけずに自分の考え続けていたこと、疑問に思っていたことなどを佐々木さんにぶつけることができました。あっというまの2時間で、終ってしまうのが惜しいほどでした。

佐々木さんはとにかく「まとめる力」が高い方でした。私がグズグズ喋っているとピシッとまとめてくれて、また佐々木さんから出てくる事例も「なるほど」と思わせてくれるものが非常に多く、得ることの非常に多い対談でした。

さて対談の内容は、今日から9回でビジネスメディア誠に掲載される連載記事のほうをお読み頂くとして、今日はまた対談後に考えてみたことを書いてみたいと思います。

これからやってくるのは中世のような「領主と農奴」の世界のような時代です。中世の領主はある一定の領土を支配しました。しかし21世紀の企業はその企業の得意分野で地球規模に支配を広げます。

例えばグーグル。

あなたは自分のことをグーグルの客だと思っているかも知れません。

その認識は間違っています。

あなたはグーグルの商品です。

グーグルの本当の客はグーグルに金を払って広告を載せてくれる企業です。

あなたや私の検索履歴や閲覧履歴そのものが、グーグルの売り物なのです。そしてそんなあなたや私のブラウザに最適化した広告を載せることに企業はカネを払っているのです。

グーグルはこれを地球規模でやっています。

グーグル先生は何でも知っています。あなたの嗜好、悩み、好きなエロサイト…。そうやって何十億人という人から集めたそれらの情報を意味ある形に再編し分析し、あなたのブラウザに入れられたクッキーを頼りに、あなたに最適化した広告を表示するのです。

今後はこういった企業が増えるでしょう。

いや、すでに沢山あるんです。

いま、そんな話を本に書いています。

まだタイトルは決まっていませんが、取りあえず「私設帝国の時代」というようなタイトルを考えています。

年内には出せると思います。

またもう少し書けたら少しずつ紹介したいと思っています。

そうそう、同じようなネタでその他諸々twitterで呟いたこと、まとめてくださった方がいたのでこちらもどうぞ。

Matsuhiroさんによる、「近未来の日本の労働環境の見通しとそのサバイバル方法」

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2012年8月27日月曜日

アップル vs. サムスンの判決は誰得か?

アップルとサムスンの裁判、大きな話題になっています。

しかしこの判決、見方によっては「結局サムソンが得なんじゃね?」と考えられなくもありません。

まずアメリカではギャラクシーのほうがかなり安いんです。iPhoneのほぼ半額。ですのでサムスンはジリジリとシェアを拡大。2012年の上四半期、既にサムスンとアップルのスマートフォンのシェアは既にどっこいどっこいです。


そこにきて今回の判決。サムスンはこれをキッカケに更に売り上げを伸ばす可能性、少なくないと思います。

なぜなら:

ギャラクシー = iPhone

と裁判所が証明したようなものだからです。

現に英語圏ではそんな論調の記事やブログ、あるいはTwitterのポスト、少なくありません。例えば昨日今日あたり、よく読まれている記事にこんなのがあります。

Best billion dollar ad-campaign Samsung ever had

このブログの筆者がスタバでギャラクシーやサムスンのラップトップを使っていると、価格も含めいろいろな質問を他の客から受けるそうです。そして価格を告げると皆一様にショックを受けるそうです。アップルがサムスンを訴えたことによりアップル自身が「アップル=サムスン」だと言ったのに等しい、と筆者は結んでいます。

現在のところ、イギリスでの判決はサムスンの勝訴。(ギャラクシーはアップルほどクールじゃないからコピーじゃないw、という判決)。韓国の裁判所ではお互いがそれぞれの特許侵害しているとして引き分け。そしてサンノゼではアップルの勝訴です。

しかし今回の判決、やたらと早い上にアップルのお膝元のシリコンバレーでの判決ですから、陪審員が公正であったのかなどを巡って疑問視する声も少なくありません。おそらくサムスンは上告するでしょう。

その間サムスンはギャラクシーを売り続けるのです。

マイクロソフトはSkype買収に85億ドル使い、FaceBookはInstagram買収に10億ドルを使いました。

そう思うと今回の10億ドルなんてたいした金額じゃありません。むしろ手頃な広告費用かもです。

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2012年8月6日月曜日

甘い部署を作らない

アップルは何故強いんだろう?
「アップルは何故あんなに強いのか?」そんな質問をよく頂きます。

ところがこれに答えるの、案外難しかったりします。まず自分が長く勤めていた会社って、日常すぎて特に分析なんかしないからです。東京生まれの人が東京タワーに登ったことないのと同じですね。

退職して数年した今のほうが客観的にアップルという会社を観れるようになった気がします。そして本を出したり講演したりするうちに自分のなかでキチンと分析が出来て、ようやくこの頃アップルのどの辺りが具体的に「強さの秘密」なのか見えてきた気がします。

最近も『「霊感」vs. 「実行」』というエントリを書きましたが、アップルの高い実行力は間違いなくアップルの「強さの秘密」だと思います。しかしこういうことも社内にいる時にはそれが普通なので、別に強みだと思ったことすらありませんでした。

「責任の所在」や「社内競争」などの観点も、自分の本でも取り上げてみて、ニューズウィークの記事小飼弾さんの書評に載ったりして初めて自分なりにしっくりきた感じです。そう思うと自分の組織の分析を中からするというのは非常に難しいことなのかも知れません。

そんなふうに色々と考えていたらふと、「アップルって弱い部署がなかったな」と気が付きました。

弱い部署は全体の足を引っ張る
弱い部署がひとつでもあるとそこが全体の足を引っ張ります。

たとえばアフターケアの部署が弱い会社があるとしましょう。すると仮に魅力的な製品をそれなりの品質で売っていたとしても、アフターサービスでイヤな思いをした人がアマゾンのレビューやらTwitterなどで思いっきり書きまくります。そしてその一部署が会社全体の足を引っ張るんです。

部品調達が弱ければ安い製品を安定して製造できませんし、品質保証が弱ければ問題の多い製品が出荷されてしまいます。マーケティングが弱ければそもそも製品が話題にすらなりません。そんなふうに1カ所でも弱い部署があると、それが全体の足を引っ張るんです。

ちょっとだけ残念な東芝
例として東芝を挙げてみます。東芝のPC、アメリカでソコソコ売れています。商品自体は気に入る人が多く、amazon.comのラップトップのベストセラーなどをみると、結構上位に食い込んでいるんです。いまや韓国、台湾メーカー、アップル、HPしか見ないアメリカのパソコン市場で健闘している、数少ない日本メーカーのパソコンです。店頭でもしばしば目にします。私も2台持っていますし、気に入っています。

ところがレビューを見ると新品なのに重大な不具合がある、というクレームと、アフターケアの対応が悪いという苦情が目立つのです。

私自身はどちらにも遭遇しなかったので東芝に悪い印象も持っていませんが、PCマガジンのアンケートなどでも似たような傾向が出ているのであながち間違いのでもないのでしょう。

私の勝手な想像ですが、おそらく工場出荷時のチェックが甘いのと、サービス部門が弱いのでしょう。こうした些細なことが全体のイメージを下げてしまいます。

アップルも長らくダメだった
アップルは長らくMobileMeが足を引っ張っていました。カネだけは一丁前に取るくせにホントに酷いサービスでした。ところがこの部署もトップが更迭され、メンバーも大幅に入れ替わって、見事にiCloudを成功させました。以前は他にもダメな部署、幾つもありましたが、淘汰されたり改善したりして2005年頃には本当に死角がほとんどない会社になってきました。

社内政治は功罪が色々とありますが、敢えてひとつだけいい点を挙げるとしたら、いい加減な部署、やっていることが甘い部署がカモにされ、激しくバッシングされるので、みんなキッチリした部署を作ろうと必死になる点でしょうか?

また小飼さんの指摘にある通り、「責任の所在を明確にする」というシステムは、こうした弱い部署、甘い部署を無くすのに非常に効果的なやり方だと思います。

そんなわけで「甘い部署を作らない」こと。

とっても大事です。


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2012年7月31日火曜日

「霊感」vs.「実行」

先週日本に一時期国し、あちらこちらで講演やインタビューや対談などをを受けたのですが、その際に強く感じたのが「多くの人がアップルには何か凄い秘密があると思っている」ということです。

なんというか「アップルには何か凄いアイデアや秘密があって、だからうまくいくんだ!」みたいな感じとでも言えばいいでしょうか?

そういう「秘密」やアイデアがないわけじゃありませんが、私はあんまりそういう「凄いアイデア」みたいな部分がアップルが他社に差をつけている根本的な要因ではないと思っています。

大事なのはExecution
エジソンが言ったとされる:

"1% Inspiration, 99% Perspiration" (発明は1%の霊感と99%の努力からなる)

という言葉がありますが、最近シリコンバレーではこれをもじって:

"1% Inspiration, 99% Execution" (1%の霊感と99%の実行)

なんて言い方をしています。

そしてアップルの凄いところはまさにこの「実行」の部分なんです。

どんな良いアイデアがあったって、それを魅力のある製品として形にしなければ売れません。ですからアイデアも勿論重要ですが、デザイン、開発、テスト、部品調達、製造、ディストリビューション、 マーケティング、セールス、サポートその他諸々のすべてが同様に重要であり、この「実行」の部分のどこか一カ所が弱いだけで、そこが足を引っ張り、爆発的に売ることはできなくなってしまいます。

Idea is Cheap
冷静に考えてみれば、アップルがゼロから考えだしたアイデアなんて何一つありません。GUIもMP3プレーヤもスマートフォンもタブレットもすべて先駆者がいましたが、アップル以前にまともに成功した会社はひとつもありませんでした。エジソンの前に電球に関する特許を取得した者は、なんと22名もいます。エジソン自身の特許も、カナダ人の学生が取得した炭素フィラメントの特許を買い取り、それに改良を加えたモノです。エジソンは妥協なくフィラメントの材質を追い求め、自身の特許が無効とされた後にも、労働者の時給が7セントの時代に10万ドルもの裁判費用をかけて電球発明者の名誉を自分のものにしています。ここまで妥協なく「実行」する者は昔も今もあまりいないでしょう。

ですので問いかけてみるべきなのは、「なぜアップルが成功したのか?」ではなく、「なぜゼロックスはGUIベースのコンピュータを売り出さなかったのか?」であり、また「なぜソニーがミュージックストアに失敗したのか?」なのです。

その答えはおそらく「霊感」の不足ではなく、「実行」部分の甘さにあります。

「霊感」だって実行なしには磨かれない
アップルの先駆者を凌駕する製品の使い勝手の良さ。これは多くのトライ&エラー、そして大量のディスカッションを経て生み出されています。トライ&エラー、そしてディスカッションという大量の「実行」をこなすからこそ、そこからイスピレーションに磨きがかかり、妥協のない製品が生み出されていきます。こうした実行なしに「霊感」の部分だけ奇妙に神格化することには居心地の悪い違和感を感じます。

アップルはどのくらい「実行」しているか?
次はもっと生々しい「実行」の部分に目を向けてみましょう。

2011年の10〜12月の3ヶ月間に3760万台以上ものiPhoneはが売れました。

3760万台 ÷ 3ヶ月 ÷30日 ÷ 24時間 ÷ 60分と計算してみるとですね、なんと

1分に290台

のiPhoneが製造、販売されている計算になります。

例えばこれらの部品調達が滞りなく行われることの凄さを考えてみてください。iPhoneの部品点数が仮に50点ぐらいだとしても、3ヶ月間で18億個くらいの数のコンポーネントが中国の工場に滞りなく運び込まれ、電話が組み立てられ、そこから世界中の販売網に滞りなく配送されます。

1分290個売れる製品を滞りなく販売店に確実に届けるのに必要なロジスティックスの緻密さ…必要な飛行機、トラックの台数、各販売店での在庫状況の把握。そして毎分290台のペースでアクティベートされる電話をサポートするインフラ。そこから売れていくアプリケーションや楽曲をホストするクラウドサービスなどなど…。

またお客さんからサポートにかかってくる電話の数。すべてが途方もないスケールなんです。そしてこれらすべてを「当たり前のこと」としてこなしているから、アップルは「現在のアップル」になれたのです。

こういう「当たり前のこと」をスキップしてアップルのように成功することはないように思います。アップル自身、こういうレベルの「実行」を当たり前のこととして遂行するようになったのは2004年以降ぐらいのことと記憶しています。

ではアイデアは不要なのか?
ではアイデアや霊感は不要なのでしょうか?
そんなことはありません。しかしアイデアというのは吹けば飛ぶようなモノです。丁寧に発掘し、磨かないと、どんな素晴らしいアイデアでもあっという間に手垢だらけの陳腐なモノに成り下がったり、アイデアそのものが死んでしまったりします。

ですから会社のトップから末端まで「アイデアを大切にする姿勢」が非常に大切です。

そしてこの「霊感」と「実行」のバランスを:

1:99

に保てたところがスティーブ・ジョブズのもっとも優れた所だったのかも知れません。


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2012年7月9日月曜日

ウクレレにPEGHEDSペグを装着

3年ほど前にウクレレを無理矢理ローGチューニングにしたらナットを折ってしまい、パテで強引に修理して使っていました。 このウクレレ、FLUKEウクレレといって裏がプラスチックで出来ている代物です。そのため傷にも強く、キャンプや海水浴などに躊躇なく持っていけるというメリットがあります。しかしペグが糸巻き式で実にチューニングしにくく、これがひとつ難点でした。また一度傷物となったこのウクレレ、まったく大事にしなくなり、「自動車の中」という楽器にとって最悪の環境に置きっぱなしとなり、妻が運転している時に助手席で弾いて遊ぶオモチャに降格していました。 ところが先日ネットを徘徊していたらPEGHEDSという面白いペグを見つけました。見た目は糸巻き式のペグなのに中に遊星ギアが内蔵されており、ギアペグのように正確にチューニングできるというのです。値段もさほど安くもありませんがトライしてみることにしました。 中身はこんな感じになっているようです。普通の糸巻き式はペグを一回転すると当然糸巻きの部分も一周しますが、これは1/4回転するとあります。フムフム。バイオリンやビオラなどのペグなどを作っているメーカーのようです。 早速ネットで注文。

実物はこんな感じです。
結構ごろんとして太いペグです。

普通のペグを比べるとこんな感じです。さっそく組み付けてみました。










ついでに割れたナットも交換することにして、こちらのほうも注文しておきました。まずは現を緩め、ナットを外します。ちょっとナイフでコジったら簡単に外れました。前回のいい加減な補修で付けたパテをキレイに剥がします。折れたナットと新しいナット。
しかし新しいナット、ちょっと高さが高いので、紙ヤスリで削って高さを整えます。そして削ったナットは瞬間接着剤で元通り接着。接着剤が乾くまで、マスキングテープで仮押さえしておきます。









次に今まで付いていたペグを外し、新しいペグを取り付けます。外した弦は邪魔臭いのでマスキングテープでボディに貼っておきます。

このFLUKEウクレレ、これまでのペグを外してみたところ、ペグ用の穴がバカでかかったのでほとんど何もせず新しいペグを付けられました。瞬間接着剤を穴の中に塗り、そして新しいペグをねじ込んでいきます。このペグのボディ、薄い金属で出来ているのでペンチなどを使うと多分凹んで中のギアを壊してしまうでしょう。ですので手で慎重にネジ入れていきます。

Dこれで完成!早速チューニングをしてみましたが、チューニングしやすいのなんの。ギヤペグほどではありませんが、これまでの糸巻き式とは比較になりません。またあまり重くないのもグッド。大抵ウクレレのペグをギアペグに替えるとヘッドが変に重くなって慣れるのに時間がかかりますが、これはあまり差を感じず、すぐに慣れました。


今後も車の中でしか使わないと思いますが、使用頻度が上がるのは確実でしょう。さらにチューナーを内蔵したいと思っていますが、いつになることやら。

このPEGHEDSペグ、おすすめです。ググってみたら日本でも取り扱っているお店があるようです。是非お試しあれ。


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2012年6月29日金曜日

腸内細菌が性格を決める?

性格を決めるもの、それは『生まれつき』(遺伝)なのか、あるいは『育ち』(後天的な教育)か、というような議論が長年にわたってなされてきました。鬱病の親を持つ子供は鬱病になる確率が高い、だから性格や気質は「遺伝」なのだ、という説もあれば、真面目な長男長女、あるいや要領のいい末っ子、などのように兄弟の構成で性格の類型ができるのだから「育ち」なのだ、などと両方の説が語られてきました。

しかし最近になって実は「腸内細菌が性格に作用している」のでは?という非常に興味深い研究内容が相次いで発表されているのです。

腸とはどんな場所なのか
まずは腸というのはどのような環境なのか、おさらいをしておきましょう。

- 人間の腸は長さ小腸6〜7メートル、大腸1.5〜2メートルほどの長さの器官。
- 腸内には数千種類、100兆個以上もの腸内細菌が生息している。大便の約半分が腸内細菌、またはその死骸であると言われるほど。
- 腸内細菌たちは人間が摂取した栄養分を利用して生活し、体の中に生態系を形成している。
- 人間1人あたりの腸内細菌の合計の重さはおよそ1.3キロほど。つまり脳みそと同じくらいの重量。

これらの細菌の中には乳酸菌やビフィズス菌などのように善玉と呼ばれ、消化吸収を助けるものもあれば大腸菌などのような悪玉菌もあります。そして腸内細菌の生態系は人それぞれで大きく異なっており、そのバランスが消化吸収はおろか、個人個人の性格にまで影響を及ぼすというのです。

マウスによる実験
そんなバカな!と思うかも知れません。
まずはマウスの実験を2つ紹介しましょう。

ひとつはユニバーシティ・カレッジ・コークのジョン・クレイン教授による実験です。この実験ではひとつのグループのマウスにLactobacillus rhamnosusという腸内細菌を含んだ餌を食べさせ、もうひとつのグループのネズミには無菌の餌を与えました。Lactobacillus rhamnosusというのはLGG菌などとも呼ばれ、ヨーグルトなどに含まれており消化吸収を助ける働きがあることが知られています。そして2週間後、それぞれのグループのネズミを水を満たしたボールに浸け、ストレス耐性テストを行いました。

LGG菌を含まない餌を食べていたマウスたちは水から出ようと必死にもがき、およそ4分後にはぐったりとしてしまい、逃げようとするのをあきらめて水にプカプカ浮いていたそうです。そこでこれらのマウスの血液を採取してみると、血中内のストレスホルモンの濃度が高くなっていることが確認されました。

一方LGG菌を含む餌を与えられていたネズミたちは4分を過ぎても水から出ることをあきらめずもがき続けていたそうです。6分経過したところで逃げるのを止めようとしないマウスたちを水から出して血液を調べたところ、なんとストレスホルモンの分泌量が通常の餌を食べたマウスたちのおよそ半分だったそうです。

またカナダのマックマスター大のスティーブン・コリンズ助教授もこれとよく似た実験を行っています。腸内細菌が存在しないマウスを育て、その後攻撃的なマウスの腸内細菌をこの無菌マウスに移すと攻撃的な性格となり、おとなしいマウスの腸内細菌を移したマウスははやり大人しいマウスになるというのです。

また上記のネズミの実験ではLactobacillus rhamnosusを大量に投与したマウスの脳内で抑制性の神経伝達物質であるγ-アミノ酪酸の受容体が活性化することがわかったそうです。一般に投与される抗不安剤などもこのγ-アミノ酪酸の受容体を活性化するそうですので、LGG菌が抗不安剤と同じ働きを引き起こすことが確認されたわけです。

腸内の細菌のバランスがどうやって脳内に伝わるのかを解明すべく、内蔵と脳を繋ぐ迷走神経を切ってみたところ、LGG菌を与えたマウスも与えていないマウスと同様の振舞いをするようになったということです。

では人間ではどうなる?
では人間での実験はないのでしょうか?

昨年3月にBritish Journal of Nutritionに掲載された論文によると、Lactobacillus helveticus R0052 と Bifidobacterium longum R0175という2つの菌を被験者に1ヶ月間大量投与したところ、ストレスや不安のレベルが、抗不安剤を服用した時と同様のレベルにまで軽減したというのです。

まだ腸内細菌がどのような経路を辿って感情に影響を与えているのかは分かっていません。しかし鬱病になると不足するセラトニンの80%はなんと腸内にあるそうなので、なんらかのバイパスがあるのかも知れません。

この腸内細菌による性格や感情への影響、なんとここ2年ぐらいで発見されたばかりということなのでまだまだ分からないことだらけのようですが、学者たちは腸内細菌を処方して各種の精神障害などを治療することができるのではないか、と考え始め研究に火がつき始めたようです。

やがて腸内細菌を調べる、といった行為が普通の検査方法になったり腸内細菌のバランスを整えることが極普通の治療方法になってゆくのかも知れません。

なんだか不思議な気がしますが、医学も何もない太古の昔には腸内の状態が生死に直結したでしょうから、腸内の細菌のバランスが感情や性格に直結しているのは理に叶っているような気がします。

試しにヨーグルトを沢山を食べてみようかと思う今日この頃です。


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2012年6月17日日曜日

スマホを持ちたくない最大の理由

さてまた同じようなネタですが、今日は「なぜスマホを買う決心がつかないのか?」というお話です。

スマホって本当に便利です。メールからウェブページ、またTwitter、FaceBook、各種ゲームからGPSまで本当に「何でも来い」です。

しかし3年前に思い切って手放し、その後はスマホどころか携帯すら持っていませんでした。すると読書が捗ったり、ちゃんと家族とおしゃべりしたりと、いいことも沢山あります。

その一方で不便は不便です。待ち合わせの時や、出先から予定が変更したい時も融通が聞効かないのはホントに不便です。またスマホはGPS代わりになったり、買い物をする前にちょっとネットのレビューを読んだりとホントに便利でしたが、こういう行為が一切出来ないのは確かに不便です。

そんな訳でスマホを再び購入しようかどうか迷っていたのですが、やっぱり電話しか出来ない、一番安いケータイを買うことにしました。

なぜって私は意志薄弱だららです。スマホを買ったが最後、ゲームやらtwitterやらをインストールしまくり、今の倍以上やるのがミエミエだからです。

ですから今回は見送ることにして、代わりに10年までの基準でも安物に分類されるような超ショボいプリペイド電話を買ってきました。3ヶ月有効の150分の通話も付いて40ドル以下です。スマホだと1ヶ月の通話料にすらなりません。安い!。しばらくはこれを使うことにしました。

この辺りの思考を「スマホを持ちたくない最大の理由」と題してまとめてみました。



こんなしょうもないことを土曜日の朝からtwitterで呟いている時点で既にネット中毒のアホですから、実はスマホを手にしても大差なにのかも知れません。が、レストランに行っても医者の待合室でもみんなスマホをいじくっているのを見ると、やっぱりないほうがいいかな……と思っています。

そのうち老眼であまりスクリーンが見えなくなったらまたスマホを利用したいと思います。えっ?そしたら何も見えないだろうって?大丈夫。その頃には更に発達したSiriとお話しをして、孤独を癒すんです。


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2012年6月14日木曜日

好きこそものの上手なれ

昔から「好きこそものの上手なれ」って言います。
最近では、ノンフィクション・ライターのマルコム・グラッドウェル氏が言いだした「1万時間の法則」などというものがあります。何事も一流になるには最低1万時間ぐらいの時間を費やさないとなれませんよ、というお話です。

では1万時間とはどのくらいの時間なのか?

例えば仕事に換算してみます。1年間の労働時間はおよそ2000時間ですから、1万時間消化しようと思うと最低5年間働かないといけないわけです。確かに就職5年目くらいって、自分でも自信がついて、色々な仕事を任されるようになる頃ですよね。

部活に例えると、年間300日練習するとして、1日3時間半程度でしょうか?すると1年で1000時間程度ですから、およそ10年やらないと1万時間が消化できません。

私は競泳をやっていましたが、全国大会の決勝の常連になるような子は最低10年くらいは泳いできている子ばかりでした。幼児の頃からはじめ、2年生ぐらいで選手になり、その後泳ぎ通しの子ばかりです。

ではアップルやグーグルの第一線でエンジニアをやっているような連中はどんな奴らかと言うと、子どもの頃からコードを書いてきたような人達ばかりです。

仕事で日がな一日コードを書いているのに、誰にも頼まれてもいないのに週末にツールを作ったりしています。

またレゴが大好きなエンジニア、非常に多いです。そして週末はマインドストームでプログラミング。異常に手の込んだものを作っては自慢しています。

もしもアップルやグーグルでエンジニアになると、こんな連中が同僚になります。

すると結局「好きこそものの上手なれ」に戻ります。好きでもないことをそんなに長時間やれるものではありません。そして好きで好きで放っておいてもコードを書いてしまうような連中だからこそ、一流のエンジニアになっていきます。こんな連中と一緒に仕事ができて、本当にいい体験をさせてもらいました。

…というような話をしたところ、「エンジニアtype」の編集部の方がいい感じにまとめて記事にしてくれました。


「エンジニアtype」元Apple松井博「世界一イノベーションを生む企業で学んだ、凡人が生きる術」



私は一流のエンジニアにはなれませんでしたが、若い頃沢山コードを書いた経験がまた違った形で生き、アップルに長く勤め、面白い仕事を沢山することができました。

私は若い時に好きな事に巡り会えて、本当に良かったです。若い時には一生懸命好きな事を追い求めるのも、大切なことのように思います。

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2012年6月13日水曜日

学校教育の比較から、日米の生産性の差を考える

日本のホワイトカラーの生産性、実は先進国で最下位レベルです。

これはホントなのか?と思われる方も多いでしょう。しかし私が日米の両方で働いてみた経験から類推すると、本当だと考えざるを得ません。

生産性は置いておいて労働時間だけ考えても、「アメリカ人は働かない、日本人は働き者」という話も実はいまや神話の類いです。これが当てはまったのは多分90年代の半ばぐらいまでです。最近はまるで逆転しており、アメリカ人、やたらめったら働いています。

しかしながら相変わらず多くの日本の会社で、今日も沢山の方が長時間残業に精を出していらっしゃいます。好き好んでやっているとも思えませんので、これはきっと文化的、あるいは制度的な原因によるものではないかと考え、学校教育や部活なども日米で比較しつつ、連続ツィートしてみました。すると案外反響が大きく、また@ko_kishiさんという方が一連のツィートをまとめてくださったので、ブログに転記することにしました。











私はなんとなく制度的な問題であるように感じています。なぜなら日本にある外資系では同様の問題が起きないからです。また日本では「会社」あるいは「学校」自体が共同体と化しているため、こうした差が出るのかも知れません。だとすると制度の改定と一緒に共同体の創出をしないと、労働時間の短縮や生産性の向上は見込めないのかも知れません。

あるいは単にリーダシップの不在なのか…。




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2012年6月11日月曜日

ネットの本当のコワさ

「ネットの怖さ」というと、ソーシャルメディアに個人情報を穫られてしまうとか、ウイルスに感染して個人情報が流出してしまうとか、あるいはブログが炎上してしまうとか、そういったことを思い浮かべる人が多いと思います。

そういったことは勿論コワいんですが、ネットの怖さってもっとネットリと絡めとられてしまう、底なし沼や蟻地獄のような怖さだと思うんです。

世の中は劇的に便利になった
ここ15年ほどでネットが劇的に発達し、私たちの生活は激変しました。

コミュニケーションも「会って話す」、「電話で話す」などから「メールを送る」、「チャットする」、「スカイプで話す」などに変わっていきました。

お陰で突然電話がかかってきてしていることを中断されたりということもなくなりましたし、新聞を取っていなくてもテレビなんて見なくても知りたいことは検索すればグーグル先生が0.1秒ぐらいですべて教えてくれます。また欲しいものがあれば楽天やアマゾンでポチッとすればわざわざ出掛けなくても家まで持ってきてくれるようになりました。

また普段会えない友達もFacebookやブログなどを通じて近況を知ることができます。友達のご子息の様子から現在の勤め先までなんでもすぐに分かります。自分も写真を載せたり面白かったことなどを書けば、友達から「いいね!」なんてされたり、PVが増えたりしてまんざらでもありません。

また世の中に意見を発信したければ、ブログを開設するなりTwitterをやるなり、あるいは2ちゃんねるなどで色々と書いてみてもヨイでしょう。するとまたフィードバックがあったりリツィートされたりして楽しいものです。

便利なはずが……
ところが気が付いてみると、なんだかアベコベになっている人が多いのです。
たとえばメールやチャット。電話から解放されたはずなのに、ケータイをひっきりなしに覗き込み、ケータイが音を発てる度に何やら返事を返します。ご飯を食べている時ですら返事を書くのは普通ですし、アメリカでは運転中に返事を書く人が絶えずに交通事故が増えましたし、タイではオートバイに乗りながらテキストする若者が多く死亡事故が激増です。

Facebookなどもいつのまにか「いいね!」を押してもらうのが目的化し、外出先では食べたものから見た景色まで何でもかんでも写真に撮り、よく撮れたものを選んでFacebookやブログにアップ!そして誰かに「いいね!」を押してもらったりブログのPVが増えたりすると満悦です。これではまるで現実の生活がネットのためのネタ作りのような位置づけです。

新聞も読まずテレビも見なくなって何をしているかというと、家に居る時はラップトップを広げ、出先ではスマホで常にネットをチェック。以前は家族で同じ番組を見てそれについてブーブー文句を言ったり話したり、あるいはチャンネル争いをしたりしましたが、そんな煩わしい人間関係、もはや必要ありません。家族全員それぞれスマホやラップトップに没頭です。

気が付いてみると
そしていつの間にやら面と向かってのコミュニケーションや、人と何かを共有するのがおっくうです。例えば電話。その場で返事しなくちゃいけないし、一度言ってしまったらそれっきり。メールやテキストのように送信前に読み直して編集なんて出来ません。それに声のトーンや息づかいからお互い情報が伝わり過ぎです。

飲み会もおっくうですし、家族で一緒にお出かけなんて暑苦しい限りです。そんなときには運転するお父さんを横目にスマホで友達にテキスト。テキストなら都合が悪くなったら「親と一緒だったから」とでも言っておけば別にどうにでもなりますし、リアルの相手と違って相手との距離感が調節しやすいのです。

私だっていつの間にか「まずメール」、そして「返事が来なかったら電話」というようにいつの間にか何でもかんでもまずはメールで打診するようになりました。そしてメールが来ると大急ぎで返事を書いています。

またtwitterも、自分緒tweetに反応があると「話題が変わらないうちに」返事をかかなくちゃ、と変に慌ててまた返事を返したりしています。どうせ全部クラウドに残っているのに。考えてみれば馬鹿げた話ですが、どうもネットって人を吸い寄せて離せなくする強力な磁力のようなものを帯びています。そしてこれを振り切るのは容易ではありません。

また昔からアイデアは散歩やトイレなどの空き時間に湧いてくるといいますが、空き時間は全部スマホが占有です。こんなことでアイデアなど湧いてくるのでしょうか?

2012年現在、いつの間やら私たちはリアルライフとネットライフの2つの人生を送るのが普通になりました。そしていつしか人とロクに話もせずににネット上で大量の時間を過ごすのがごく普通の生活形態となってきました。人といっしょにいるときでもひっきりなしにスマホを覗き込み、以前のような濃密さはありません。15年ほど前まではネットなんて存在すらしなかったんですから、考えてみるともの凄い変化です。

このような人との関わりの変化が、一体どのような影響を私たち一人一人に及ぼしていくのかは、まだ誰にも分かりません。何しろ人類はこれまでこのような生活を体験したことがないのですから。

そしてどうすればいいのか?
思うに今後大切になっていくのは、必要に応じてネットの磁力から自分の意志で抜け出せる力を持つことではないかと思います。気持ちを整理したいとき、大切な話をしなければならない時に、メールやネットに依存せず、ちゃんと一人になって考えたり、ちゃんと人と面と向かって話せる能力。そんな能力が重要になってくると思います。






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2012年6月1日金曜日

ゾンビウィルス「LPQ-79」の噂

昨日世界中を震撼させたニュースと言えば、「マイアミのリアル・ゾンビ事件」です。CBSの報道によると、マイアミで「バスソルト」という新型のLSDが出現し、これを服用すると高熱が生じ、凶暴化し、譫妄状態になるということです。そしてこの麻薬を服用したと思われるルーディ・ユージン容疑者がホームレスの男性に噛み付き、生きたまま被害者の男性の顔を食べてしまい、警官に撃たれても絶命するまで食べるのを止めなかったというのです。日本語で詳しく読みたい方は佐々木俊尚氏がFacebook上でまとめを公開しています。

Youtubeにニュース映像がありません。(グロくありません)なんとも不気味な事件です。


目撃者のインタビュー。ホントにコワ過ぎです。ゾンビのようだったとのことです。


さて今日になってネットでさらに奇妙な噂が流れています。

曰く、この事件の本当の原因はLSDではなく、LPQ-79と呼ばれる、ゾンビウィルスなのだ…」と。詳細はこちらです。←グロ注意!!!

「このウィルスに冒されると内蔵が破壊され、脳波に影響を与え、人肉を食べたくなるのだ…」

「ルーディ・ユージンの体内からこのウィルスが発見された!」

「感染性が極めて高い」

「バスソルトは真実を隠すために作られた話だ」

などなど。

「人肉を食べたくなる脳波ってどんな脳波だゴラッ!」と小一時間問いつめたくなるような噂ですが、噂とはそもそもそのようなものなのでしょう。

ネットも「これはウソ!」と噂を否定する記事で一杯ですが、その一方で不安を感じている人も多数いるようで、Yahoo Answers などにも質問が投稿されています。

今日になって新たに別の食人事件が報道されており、2日続けてのショッキングな事件の報道がこの噂に信憑性を与えているようです。

今日の食人事件はこちら。メアリーランドに住む21歳の大学生が同居人を殺し、脳と心臓を食べたと自白したとのこと。

どちらの事件もホラー映画を地でいっています。これらの事件を目にすると銃乱射などが「普通」に感じるほどです。

ただの噂だと思っていても、子供の時に流行った「口避け女」などと同様に、この手の恐い話には何故か惹かれる部分もあり、もしかして…と期待してしまう思ってしまう部分もあります。

しかしリアル・ゾンビはいささか勘弁ですね。

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2012年5月28日月曜日

腐敗する会社はどこも似たような匂い

私の本「僕がアップルで学んだこと 環境を整えれば人が変わる、組織が変わる」の中で、90年代に倒産寸前だったアップルのダメっぷりについて丸1章割いて話しています。 どのくらいダメだったかという話はこことかこことかで紹介されていますので興味のある方は是非お読みになってください。

最近シリコンバレーに住む日本人の方からも「本読みましたよ〜」と声をかけて頂くことが多くなり嬉しい限りです。が、その後にギョッとするコメントを頂いたり以下のような会話が続くことが多いんです。

「うちの会社、アップルのダメ時代とソックリだよ…。」

「ホント?ウチの会社もだよ〜!」

「あれヤバいよね」

「出荷する前からパッチの話してるしね」

「やってる当事者が「ダメだな…」と思いながらやっているし……」

「いろんな製品があるのにどれもパッとしないんだよね〜」

「社内でプロジェクトが多過ぎて何やってるか、なにが最優先のプロジェクトなのかとか全然分かんないんだよね〜」

「犬連れてくる人、いるよね〜」

マジですか???
マズいですよ。
あの頃のアップルの加速度的な腐敗の進み方は本当に凄かったですから、これが本当なら経営陣の方々、相当な危機感を持ったほうがいいと思います。

ちなみにこうした会話を交わす相手は世界最大の検索エンジンの会社とかPDFを発明した会社など、誰でも知っている超有名企業にお勤めの方たちです。

それから話し相手が管理職の方だと、こんな会話に発展することもあります。

「社内政治、ホントにヒドいよね〜」

「うちの会社も松井さんの本のままだよ」

「ウチはもっとヒドいよ。ある部署が別の部署と同じプロジェクトを始めて、元の部署を乗っ取ったり…」

……。あんまりなので会社名は伏せておきますが、グローバル企業の社内の様子ってどこでもあまり変わらないようです。

日本企業は「経営不在」という別の形の病を感じますが、社内に犬を連れてくる人がいるとかバグだらけのままパッチ前提で出荷するとか、そういう社員レベルでモラルが欠落したような問題はあまり聞かないように思います。むしろ「間違った方向に努力し続けること
」が最大の問題、という印象です。

それに比べるとアメリカの企業はある意味分かりやすいですね。不真面目な社員は怠けだし、社内政治が激化し、そして見切りを付けた風向きに敏感な社員がドンドン辞めていきます。ですので病理が表面化するのが早いように思います。しかしどちらの病気も経営の問題であることには変わりがありません。こういった重大な病は末端の努力で治すこと、ほとんど出来ません。それどころかソニーや米国Yahoo、あるいはNECなどの例をみても、経営陣を内部昇格で変えてもほとんど何も変わりません。
一度ガラガラポンするとか経営陣を総入れ替えするとかしないとなかなか建て直りません。

結局アップルもジョブズ復帰に伴い経営陣をNeXT出身者に入れ替え、マイクロソフトから輸血を受けての再出発でしたから、一度倒産したようなものです。ジョブズだって一度は社外に追放された身でしたから、そんなふうに外部から新しい血が入らないとやっぱり無理なんだな、って思います。

さて日本のエレクトロニクス陣営はいま瀬戸際にいます。しかしどの会社も優秀な人材や金になる事業のひとつやふたつ、今でも持っています。是非なんとかして知恵を絞り復活して欲しいと思っていますが果たして成るか………。

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2012年5月25日金曜日

牛さんたち、ごめんなさい。

マクドナルドと言えばハンバーガーです。ジューシーでおいしいですよね。私はビッグマックとか大好きです。


こんなの。

この中に挟まっているお肉はハンバーガーパティと呼ばれる、ハンバーグのお肉です。

こんなの。
さて。マクドナルドは本当に大きな企業です。不況にも強く、2007年以来ずっと続いている世界不況の中でも着実に売り上げを伸ばしています。2007年には45ドルほどだった株価も現在は91ドル。倍以上に上げています。現在は118カ国に3万1千店もの店舗を抱え、アメリカ国内だけでも1万3千店もの店舗があるんです。全世界でなんと


毎秒75個

のハンバーガーが売れるそうで、アメリカ国内では一日2千3百万人(!)もの人がマクドナルドで食事をするそうです。

アメリカ国内だけでもこれほどの人がハンバーガーを食べるとすると、一体どれだけの牛肉が消費されているのか気になります。調べてみたところ、なんとアメリカ国内のマクドナルドだけでも1年間におよそ10億ポンドもの牛肉が消費されているそうで、これってなんと牛

550万頭

分だそうです。

550万って、東京の人口が1200万ぐらいですからそのおよそ半分ですよ。

この数字がどのくらい凄いかちょっと考えてみましょう。

550万頭/365日=1日あたり15068頭

となります。

そう。なんと1日に1万5千頭もの牛が肉になってしまうんです。



この牛さんたちがどんなふうにパティにされてしまうのか興味のある方は下の2つのビデオをご覧ください。

まずはこのビデオ。本当に強烈なので、覚悟してみるか、見ないほうがいいかも知れません。もしもあなたが今後ハンバーガーを食べられなくなっても、あるいは肉そのものが食べられなくなっても私は責任持てませんので、自己責任でお願いします。わたしは途中で見るのを止めてしまいました。そのくらい強烈です。



下は「精肉」工場の様子です。どうってことない映像ですが、上の映像を見た後だと、正視に耐えない部分もあったりします。



あなたや私が食べるハンバーガーはどこかの牛さんの肉だと頭では判っていましたが、こうして映像で見てみると実に衝撃的なものです。

今年もまた、アメリカ国内だけどもこんな光景が550万回繰り返されています。

牛さんたち、ごめんなさい。あなたたちだって自分の一生を全うしたいだろうに……。私もう、肉食べるのやめようかと思います。




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2012年5月19日土曜日

じゃんけん、じゃんけん、またじゃんけん

最近勝間勝代さんの『「有名人になる」ということ』という本を読みました。

この本、意外なくらい面白かったです。勝間さんの本は今まで2、3冊読んだ事がありましたが、どの本も極めて真っ当で理路整然としており、かえって印象に残らない傾向がありました。

勝間勝代さんという方、異常なぐらいエネルギーに溢れていて、なんか見ていて疲れるくらいの方ですが、でも成功する人ってみんな驚異的にエネルギッシュですから、まあ当然と言えば当然です。でもちょっとその有り余るエネルギーをストレートにお茶の間に届け過ぎなんじゃないかい? と長らく思っていました。

そしてこの本を読んでみて、何とも言えず納得しました。特に印象に残ったのがここ。

確率が低い勝負であっても、それを繰り返し繰り返し行っていけば、いつかは負け続ける確率が下がっていって、どこかで必ず勝てるのです。多くの人はそのような努力を五〇回、一〇〇回は続けません。しかし、もしチャレンジしてもとくに失うものがなければ、勝負をし続けることです。そうすれば、必ず勝てます。わたしは多くの有名タレント、有名経営者にインタビューする機会を得ましたが、ほんとうに、すべての人に共通するのが、この「じゃんけん、じゃんけん、またじゃんけん」の精神です。
なるほど。「じゃんけん、じゃんけん、またじゃんけん」の精神か…。自分に欠けているのはこういう「しつこさ」だと思いました。この一文に出会っただけでもこの本をわざわざ日本から取り寄せて読んだ価値がありました。

もうひとつなるほど、と思ったのは勝間さんが有名人になるメリットとして挙げているこれ:
人脈のひろがりによるチャンスのひろがり。これを生かせないと、有名人になったメリットはほとんどない
これ、有名人でなくても実はまったくその通りで、趣味のサークルとか職場とか、あるいはtwitterやmixiの出会いでも同じことですよね。現代は特別有名じゃなくても、自分なりにソーシャルメディアなどを通じて働きかければ思いがけないほど広がりが増えていきます。そういう広がりを生かさない手はないように思います。

ただ、人脈って「役に立つから」と思って作るモノではなく、いろんな所でいろんな出会いがあるうちに、響き合う人に遭遇し、それが段々と人脈を作ってくれるような気がします。また人脈が増え、自分にとって未知の業界で働く人の話を聞いたりすると今までになかった視点を得られ、視野が広がるだけでもめっけものです。ですので有名人になるならない、あるいは「役に立つ/立たないはともかく、積極的に出会いの機会を設けていくのは本当に大切なことです。

感じ入るところの多い一冊でした。おすすめします。

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2012年5月16日水曜日

バーチャルはリアルをどこまでも浸食

昨日「マルチタスクからマルチライフへ」と題して、現代人がいかにリアルライフとバーチャルライフを並行して生き、バーチャルがリアルの方を浸食/分断し、希薄にしているか、というような話を書いたばかりだったのですが、現実はそんな記事よりもずっと先を進んでいるようです。

さて今日かなりショッキングな記事を目にしました。

セックスの最中もスマホでショッピングが止められないってマジ? 35歳以下の女性に増える驚愕のナイトライフ...


う〜ん。ウソくさい…… と思ったんですが一応元記事を確認。そしたらキチンとした調査会社が行ったアンケートが元となった記事で、あながちウソとも言いきれないようです。発表したのはMeredith’s Parents Networkという会社で、この会社「Parents」などの真面目な雑誌を出版している会社です。これが元記事:

21 Percent Of Millennial Moms Use Their Phone In The Bathroom And 12 Percent Use It During Sex(21パーセントの母親はトイレでもケータイを使い、12パーセントはセックスの最中も手放せない)

調査対象になっているのは1977年〜1994年生まれ、つまり18〜35歳以下の母親ということです。
およそ10人に8人がFacebookのアカウントを持っており、81%の人がスマートフォンでネットショッピングをしているとのこと。日本語の記事にあった「セックスの最中もスマホでショッピングが止められないってマジ?」というタイトルはそこから来たようです。

さて21%がトイレにスマホを持ち込むというのは何となく分かるような気がします。手軽な暇つぶしですからね。ちょっと前まで新聞や雑誌を持ち込んでいたのと感覚的にはさほど変わらないでしょう。でも12%、およそ8人に1人の女性がセックスの最中にスマホを使うっていうのはやっぱりにわかには信じられません。

ただデート中でもスマホをいじっているカップルっていくらでもいますから、ちょっと若いカップルだとそれがエスカレートしてセックス中でも使ってしまうんでしょうか?また今のケータイ、どんな安物でもビデオも写真も撮影できますから、そういう使い方なんでしょうか?それならやや理解できるような気がします。でもそれって俗にいう「ハメ撮り」ですし、こういうことって男がやることと相場が決まっていたと思うんですがそんな思い込みは古いんでしょうか?

そういえば3年ほど前に「Sexting」という記事をこのブログに書いたことあります。ティーンのカップルが恋愛中に自分のヌード写真をお互いに送ったり、セックスを撮影したりするものの、破局後にヤケになった男がそういう画像をネットにぶちまけたりするという話でした。2009年の時点で既にこういう話が社会問題化しつつあったので、3年後の現実はもっとずっと進んでいるのかも知れません。セックスを撮影するなんて私にはあり得ないアブノーマルプレイな気がしますが、今では定番メニューなのかもしれません。

twitterやfacebook って本当に何でもかんでも載せる人いますから、「セックスなう」とか呟いていてもおかしくないです……。

とか思ってtwitterで「セックスなう」って検索したら

本当にザクザク出てきました。(←クリックしてみてください)

う〜む……。

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2012年5月14日月曜日

マルチタスクからマルチライフへ

コンピュータが生活に入ってきて一般的になったものと言えば「マルチタスク」です。

私も企業勤めの時にはいつでもどこでもメールを読んだり書いたりしていました。またテキストメッセージもひっきりなしに来ていました。時間が根本的に足りず、家族とテレビをいっしょに見ている時ですらソファーの端でラップトップを広げ、常に何かやっていました。iPhoneが支給されてからはますますその傾向に拍車がかかり、本当に常に仕事をしていました。こんな生活をしている人、今では少なくないでしょう。

振り返ってみると仕方がなかったとはいえ、家族には悪かったな…と感じています。

そして遂に会社勤めを辞め、このマルチタスク生活に終わりを告げる時がやって来ました。退職を機に携帯電話も処分してしまったので、家族に向き合う時間が増える…はずでした。

しかし、時代はマルチタスクからマルチライフの時代に移り変わっていたのです。

マルチライフってなんだって?

読んで字の如く、複数の人生です。

誰でも家族や友人とご飯を食べたり喋ったりするリアルライフがありますが、その一方でFacebookのアップデートを覗き込んだり、twitterにコメントしたりされたりと、リアルライフと並行してもうひとつのバーチャルライフがあるんです。そして仕事のメールから解放されたら、今度はそのバーチャルライフにつぎ込む時間が劇的に増えてしまったのです。

そしてこれはおそらく私だけではなく、世の中の多くの人がそうでしょう。

この「マルチライフ」を実感したのは、2年ほど前に知り合いのお葬式に行った時のことです。

お葬式って人生の中でも数少ない、自分の120%のアテンションを故人とその残された家族や友人に向け、故人を偲ぶべき時間だと思うんです。

でも談笑しながらコッソリとテキストしたりFacebookを覗き込んでいる人、数名ですがいました。

葬儀でこの始末ですから、喫茶店などで談笑しているグループなども全員が代わる代わるスマートフォンを覗き込んでいるんです。当然ながら目の前にあるリアルな会話につぎ込まれるアテンションは以前の半分かそれ以下です。

またちょっと前までは思春期の子供がケータイのメールにかかりきりで食卓でも上の空、なんて問題視されていましたが、いまやうっかりすると親の方も子供なんか見ちゃおらず、意識は半分バーチャルライフです。

これじゃ一体どっちがリアルでどっちがバーチャルなのか微妙なくらいです。

さて、まあこれはこれで新しい人生の形態なんだと思うことにしましょう。良くも悪くも今はリアルとバーチャルがくっ付いた時代ですから、これも新しいリアルなんだと割り切る必要がある部分もあるでしょう。

しかしですね…。昔なら例えば大学に進学すると、それまでの友達とは基本的に付き合いが切れて、「新しい自分」をやり直せるような部分があったと思うんです。そして地元に帰った時だけあんまり冴えない、それでいてちょっと安心できる「昔の自分」に戻るみたいな。

でも高校の時からFacebook に300人も400人も友達が居て、大学に行こうが海外に移住しようがそれがみんなくっ付いてくるってどうなんでしょうか?これではやり直しもクソもありません。そういうのが幸せなのか微妙な気がします。

また中学や高校時代といった若い時期には、部活動などの距離が近過ぎて息苦しいような濃密な人間関係の中で、人との付き合い方や距離の取り方、あるいは我慢の仕方など色々と学んだと思うんです。でも今ではだれでもちょいとケータイを取り出して意識は半分「あちら側」に飛ばせてしまうのです。これは果たして人間の成長に良いことなのかどうか、極めて判断が難しい問題な気がします。

最近「Alone Together: Why We Expect More from Technology and Less from Each Other」という本を読んだら、ついついこんなことを考えてしまいました。和訳はないようですがなかなか興味深い本です。英語が不自由でない方は是非チャレンジしてみてください。

おすすめです。

PS:なお、この続きに当たるような記事を書きました。こちらです。

バーチャルはリアルをどこまでも浸食




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まずは中身

昨日、佐々木俊尚氏の「ネットがあれば履歴書はいらない」という本を読みました。

最近本を出したばかりの駆け出し作家の私にとっては非常に参考になる本で、「フムフム」、「なるほどなるほど」などと言いながらあっという間に読んでしまいました。

そして早速参考にさせて頂いて、Facebook、Twitter、そしてこのブログのプロフィールの写真を統一しました。(これこれ→)自分の本の帯に顔写真が付いて全国の書店で売ってますし、今更顔を隠しても意味がないので、サングラスをかけていたこれまでのプロフィール写真はオサラバです。

そして昨日社内でのセルフブランディングとも言える「猛禽類とどうやって戦うのか」というエントリーを書いたのですが、書きながら改めて思いました。

ブランディングってそもそも

中身がないと無理ないんじゃないの?

例えばマズいレストランとかダサい服とかブランディングのしようがありません。無理なんです。マズいワインはどんな素敵なボトルに入れてもマズいままなんです。

個人も同じ。そもそも売りがなければブランディングもクソもありません。

そしてブランディングをするに値がある中身を創り上げるには年単位の努力が必要です。中身がない人がいくらブランディングしても無意味、無効果です。それどころかむしろ逆効果かも知れません。周囲から「そんな暇あったら仕事しろ!」などと思われるのがオチであるような気がします。実際ブランディングに使う時間を仕事や勉強に使った方がよほど役に立つでしょう。

これってなんとなく「英語が出来れば素晴らしい未来が待っている!」的な宣伝文句にも通じるところがあるように思いました。

どんなに英語が出来ても、それだけではただの英語屋が関の山です。手に職があるとかマーケティングに詳しい開発の現場で実績があるとか、なんか売りがあって初めて英語力が意味をなし、自分の世界を大きく広げてくれます。

自分がナンボのモノなのかは、激しい競争の中に飛び込んでみないとなかなか分からないものです。敢えて人と比べなくても、色々と血みどろ汗みどろになって四苦八苦するうちに、いつの間にかある特定の分野に関してはキチンと自信を持って発言できるようになってきます。

とはいえ、「半人前はセルフブランディングするな!」とか「半人前は英語勉強しても無駄だ!」などと言っているわけではありません。私自身、先に英語が出来るようになって、その後に:

あれ、オレって英語できるけど中身ないじゃん

って気が付いて真面目に仕事をするようになりましたから、まあブランディングも英語もやりたいと思った時が旬だと思います。それに取りあえず英語が出来るお陰で通訳代わりにけっこう重要な仕事のお供をさせてもらったりして仕事憶えましたから、英語が導いてくれた世界もあります。ただ英語もブランディングも魔法の杖ではありません。大切なのはやっぱり

中身です。


さてこんな中身のないエントリーが書き終わったところで、その辺でひなたぼっこしてうたた寝をし、さらに中身のない時間を過ごすとしましょう。


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2012年5月13日日曜日

猛禽類とどうやって戦うのか

さて先日書いた「グローバル企業のトップはみんな猛禽類」という記事、僅か1日で5万ビューを突破し、その関心の高さに驚くとともに、「一体こんな連中とどんなふうに戦えばいいのか?」というようなコメントを多数頂きました。

まずご安心頂きたいのは、こういうとんでもない連中はトップクラスの連中で、世の中の大半を占める私やあなたのような人達の直属の上司になるようなことはまずないことです。またこの超トップクラスはある意味清々しささえ漂っており、尊敬の対象になりこそすれ、戦おうなんて気が起きないものです。



私はこの左上の写真の、テキサスの牧場で散弾銃に弾込めていそうなBob Mansfield氏の下の、そのまた下に位置していました。恐ろしく厳しい人でしたが、フェアな人でした。尊敬していました。またこういう人達はあまり突出した才能があるせいか、案外たいした大学を出ていないのに要職に就いていたりします。天才には学歴なんて不要なのかも……とも思います。ちなみにBob Mansfield氏はテキサス大学(!)の電子工学専攻で、それが最終学歴です。iPodの父と言われるTony Fadell 氏もミシガン大学の卒業生で、大学院には行っていません。

厄介なのはこう言った雲の上の人達ではなく、それよりも1〜2ランク下にいる、気分だけは超一流気取りで、イヤなところだけ偉い人達の真似をし、出世することにとにかく必死な人達です。ボーディングスクールからアイビーリーグスクールの院卒、と言った学歴の人が多く、確かに頭も切れ仕事もできますがエゴもプライドも極度に肥大しています。

そういう人達、性質的には「グローバル企業のトップはみんな猛禽類」で書いたそのももです。ですが天上人たちのような的確なビジョンや突出したリーダーシップがあるわけではありません。

あなたがそういう人の部下だとすると、あなたの手柄は全部その人の手柄にされますし、それでいてあなたに利用価値がなくなったと見るやサヨナラです。ホントに躊躇せず人を刺します。ある意味トップクラスの連中よりもずっと性悪です。

ではそういう人には一体どうやって対抗すればいいんでしょうか?

それには自分を商品化し、社内の上層部に広く知られるようにするしかありません。こういう人達に口で勝つのはまず無理な上、政治力でも敵いませんし、労働時間ですら負けてしまいがちです。

詳しくは「僕がアップルで学んだこと」に書きましたが、あなたの成果を横取りされないようにするには、あなたの成果が広く知れ渡るような自分自身のブランド化とマーケティングが必要です。

社内には多くのメールやレポートなどが飛び交います。自分から発信するメールやレポート、またメールの返事などはすべて情報発信の機会と考え、常にビシッとした情報を出すことが非常に大切です。

今や自分の書いたブログ記事がtwitterやメールなどで拡散され、思わぬ形で世の中の人々に「発見」される事がありますが、社内ですらそういうことが起きる時代です。的確に問題点をえぐり出したレポートや目を惹く提案書などがあると、それが瞬く間に転送されて拡散する時代です。ですから末端の社員でも上級管理職の人たちに「発見」されることも起こりうるのです。またそういったコンテンツを盗用されないような工夫も大切です。

こうしたことを的確に行うには、自分の得意分野、専門分野といったものをよく考え、自分を売るための「ストーリー」を日頃から持っておくことが大切です。するとこうした情報発信の際の拠り所となり、的確なイメージ作りを行っていくことができます。

自分の成果や手柄を守る意味でも、こうした自分自身のマーケティング、外資系や米国の企業で働く人はすぐにでも取り入れることをおすすめします。


2012年5月12日土曜日

カモが庭に!


今日夕方買い物に行った妻が、家に入ってくるなり「アヒルがいる!アヒルがいる!」というではありませんか。

「ちょっとちょっと来て!」と乞われるままに外に行くとなんと:



確かにいますよ。でもアヒルじゃありません。カモです。置物じゃありません。



もう一羽。


くつろいでいます。


スプリンクラーの水しぶきを浴びながらくつろいでいました。

一体このアヒルカモたちはどこからきたんだろうか?

アヒルカモがいるような公園はウチから何キロも離れているんです。

その後時々チェックしましたが、6時から9時ごろまでいました。

9時すぎに見てみると居なくなっていました。

一体暗闇の中、どこに行ってしまったんだろうか…… 不思議です。

妻は「ガー子はどこに行ったのかなあ……」と呟いていました。もう名前付けたのかよ、と突っ込みを入れつつも、私もガー子とガー吉がどこに行ったのか気になります。

また来てくれるといいなあ…。




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